新刊発売のおしらせ

新刊『盆踊りの戦後史 「ふるさと」の喪失と創造』(筑摩書房)が発売されました!

アラレちゃん音頭やダンシングヒーロー、バハマ・ママがかかる「非伝統的」な盆踊りは、戦後の新しいコミュニティーにおいてどのように機能してきたのか? 埼玉県の国道16号線近くの地域で育ち、故郷と呼べる場所のない自分としては、いつか向き合わなくてはいけないテーマだとも思っていましたが、今回ようやく形にすることができました。

団地や新興住宅地だけでなく、川崎や釜ヶ崎といった労働者の街、いちょう団地など多くの移民たちが住む地区、震災で甚大な被害を被った被災地など、さまざまなコミュニティーの変遷を辿りながら考えてみました。2015年に出した『ニッポン大音頭時代』と対になる内容でもあります。

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『盆踊りの戦後史 「ふるさと」の喪失と創造』
2020年12月17日発売
定価:本体1,600円+税
ページ数:256
ISBN:978-4-480-01719-2
JANコード:9784480017192
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017192/

●第一章 日本の近代化と盆踊り――明治〜昭和初期
近代化以前/性のエネルギーを発散する場/盆踊りの禁止/レコード・ラジオの発展/「東京音頭」の大ヒット/振り付けと新舞踊運動/踊りコンテスト/プロバガンダとしての音頭・盆踊り ほか

●第二章 戦復興と盆踊りの再生――昭和二〇〜三〇年代
戦没者供養という原点/再編される地縁団体/民謡ブームにのって/国内観光ブームの影響/レクリエーション・ダンスとして/北海道の独自な盆踊り文化 ほか

●第三章 高度経済成長期の新たな盆踊り空間――昭和三〇〜四〇年代
故郷喪失者たちが夢見た「ふるさと」/日本共産党後援会が立ち上げた盆踊り/釜ヶ崎夏祭り/地域で親しまれている工場盆踊り/「新しい街」としての団地/千葉県柏市光が丘団地/岐阜県瑞穂市本田団地/福岡県北九州市土取団地/東京都東久留米市滝山団地 ほか

●第四章 団塊ジュニア世代と盆踊り――昭和五〇年代
「ディスカバー・ジャパン」の時代/多摩ニュータウンの盆踊り/千里ニュータウン/千葉ニュータウン/団塊ジュニアはアニソン音頭で踊る/新スタンダードは地域で突然現れる/バハマ・ママ音頭とレクリエーション・ダンス ほか

●第五章 バブル最盛期の盆踊りと衰退――昭和六〇年代〜平成初期
コミュニティーの破壊と再生/西神田ファミリー夏祭り・盆踊り/「ダンシング・ヒーロー」がなぜ盆踊りになったのか/ダンス・パフォーマンスとしての祭り――YOSAKOIソーラン祭り以降/バブル崩壊と阪神・淡路大震災 ほか

●第六章 東日本大震災以降の盆踊り文化――平成後期〜現在
東日本大震災以降の盆踊り人気/プロジェクトFUKUSHIMA!と「ふるさと」の創造/「DAIBON」――従来の演目のアップデート/にゅ〜盆踊り――ダンスカンパニーとの協働/高島おどりと徳山おどり/YouTube以降のカルチャーとしての盆踊り/被災地と盆踊り/復興公営住宅の盆踊り大会/盆踊りと移民/埼玉県川口市芝園団地/神奈川県横浜市・大和市いちょう団地 ほか

●終章 アフター・コロナ時代の盆踊り――二〇二〇年夏に考える
盆踊りのない夏/オンライン盆踊りの試み/さまざまな縁を結び直す場としての意義/死者と生者の交わる場所 ほか

3年ぶりの新刊が出ます

3年ぶりの新刊が出ます。タイトルは「奥東京人に会いに行く」、晶文社より10月11日発売。ご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございました!

ざっくり説明してしまえば、テーマは「東京の周縁に息づく風習や暮らしについて、さまざまな証言や資料をもとに迫るノンフィクション」といったところでしょうか。出版社のジャンル分けによるとノンフィクション・民俗学になるようですが、自分では現代の民話を紡ぐような感覚で書いていました

東京の「周縁」に住む人々は足元の土地とどのような関係を結び、東京オリンピックを前にして急激に都心の風景が変わりつつある現在もどのような結びつきを保っているのか。取材のなかで「その土地で生きること、暮らすこと」という極めて普遍的な問題について考える機会も多く、その意味では東日本大震災以降に浮かび上がってきた自分のなかの問題意識と繋がる内容でもあると思います。

装画はフランセやKENZOの製品パッケージやLIGHT IN THE ATTICの日本産フォーク・コンピ『木ですら涙を流すのです』のジャケなどを手がけてきたイラストレイター、北澤平祐さんによるもの。写真撮影は大石慶子です。

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奥東京人に会いに行く
大石  
四六判並製
264 
定価:本体1700円+税 

https://www.shobunsha.co.jp/?p=5504

今まで語られてこなかったアナザーサイド・オブ・トーキョー!
えっ、ここが東京? 高層ビルが立ち並ぶ姿だけが「TOKYO」ではない。 政治・経済の中心地である都心を尻目に、自然と共に生き、昔ながらの暮らしを淡々と続ける周縁部の住人たち。 そんな奥東京人たちのポートレイトから、東京の知られざる一面を描き出したディープ体験記。

1 東京の山――杣保の地に息づくもの
高度経済成長期に消えた「七ツ石の博打」(奥多摩町留浦)/ 東京のマチュピチュ、峰集落の暮らし(奥多摩町峰谷地区)/ 奥多摩の民話と三匹獅子舞(奥多摩町氷川・境)

東京の川――水と信仰の地
東京イーストサイドに棲む蛇神の伝説(葛飾区高砂) / 水神を祀る「渡し場の水神講」(江戸川区東小松川) / 浅草神社の神紋に描かれた三つの網が意味するもの(江戸川区東葛西)

東京の海――現代に生きる海の民
いのちを賛美する漁師町の歌(大田区羽田)/ 生と死の境界線上で踊る「佃島の盆踊」(中央区佃)

東京の島――最果ての地に生きるということ
新島に生きる神唄集団「ヤカミ衆」(伊豆諸島・新島村) / 絶海の孤島・青ヶ島の「還住」(伊豆諸島・青ヶ島村) 

INTERVIEW

マニラの未来をノックするヘヴィなベースラインーーRED-I、SOUL FLOWER、T-CA$H(BIG ANSWER SOUND)

取材・文/大石始
Interview/Hajime Oishi
撮影/ケイコ・K・オオイシ
Photo/Keiko K. Oishi
協力:T-CA$H(BIG ANSWER SOUND)、PART2STYLE、新宿ガラム

フィリピンに対しては以前から親しみを覚えていた。

この国の国民はタガログ族やビサヤ族といった先住民族に加え、1898年までこの国の宗主国であったスペインからの移民の血も入っている者も多いそうで、OPM(Original Pilipino Music)と呼ばれるフィリピン・ポップスのビデオクリップを観ていると、ペルーやボリビアでこんな顔のメスティーソ(インディヘナとスペイン系の混血)と会ったな、なんてことを考えたりもする。また、フィリピンの先住民族はオーストロネシア語族の部類に入るので、同じルーツを持つ南太平洋の人々とも顔つきが似ている。OPMの多くはアメリカンナイズされたポップスだが、そのなかにふとハワイ風のアイランド・ポップスを見つけて胸を踊らせたこともあった。そうなると、今度はハワイやイースター島で出会った彼や彼女のことが脳裏に浮かんできたりして、いまだ足を踏み入れたことのないフィリピンの人々にグッと親近感を持ったのだった。

また、フィリピンは約40年に渡ってアメリカの植民地だった時代があり、90年代初頭までアジアにおける米軍の軍事拠点ともなっていた。加えて現在も力の入った英語教育が進められているため、成人すると英語圏へ移り住む者も多いそうで、アメリカに住むアジア系住民の中でもフィリピン系は2番目に多いという。そういえば僕が大好きなラテン歌手、ジョー・バターンはフィリピン人の父親とアフロ・アメリカンの母親のもとスパニッシュ・ハーレムで生まれ育ったアフロ・フィリピーノ。1975年にはその名も『Afro-Filipino』というアルバムをサルソウルからリリースしているが、現在でもたびたび父親の祖国に渡ってライヴ・パフォーマンスを披露しているらしい。

そうした断片的な情報に加え、PAPA U-GeeさんやLIKKLE MAIさんを通じて伝えられる近年のマニラ・レゲエ・シーンの盛り上がりや、Youtubeにアップされている大量のフィリピン・ラップの映像がオーヴァーラップし、僕のなかでのフィリピンへの関心は少しずつ高まっていった。

言うまでもなく、現在もこの国は多くの問題を抱えている。マニラ中心部の高層ビルとケソン市の廃棄物処分場パヤタス・ダンプサイトの風景に象徴的に現れている凄まじい経済格差。この原稿を書く数か月前には南部ミンダナオ島の反政府武装勢力、モロ・イスラム解放戦線(MILF)とフィリピン政府の和平合意のニュースが届けられたが、約40年に渡る両者の衝突は実に12万人以上もの死者を生んだとされている。
こうした<貧困や民族紛争のアジア>とは紛れもない現実だ。でも、僕は報道ジャーナリストではないので、その国にどんな音が鳴っていて、どんな人々が生活を送っているのか、そちらのほうが気になって仕方がないのである。今のフィリピンの街中ではどんなメロディーが鳴り響いているのだろう? クンビアを求めてコロンビアまで行ってみたら街中に溢れるサルサとチャンペータのほうに心奪われてしまったように、僕はいつもイメージの向こうに足を踏み入れたいと思っているし、それはフィリピンに対しても変わらない。もちろん現地を訪れないことには何も始まらないわけで、旅立ちに向けて少しずつ準備を始めた頃、マニラで活動する2人のDJが来日するという話を耳にした。マニラでクラブ<B-SIDE>を経営し、自身名義のアルバムも発表しているRED-I。彼の相棒でもあるSOUL FLOWER。マニラ最先端のユース・カルチャーの担い手であり、いま現在起こりつつあるアジアの新しいムーヴメントの中心を担う2人の存在は以前から聞いていたが、まさか東京で会えるとは思ってもいなかった。

そんなわけで、彼ら2人に加え、マニラで活動する日本人DJクルー、BIG ANSWER SOUNDのT-CA$Hにも同席してもらい、マニラのアンダーグラウンド・シーンに関する貴重な話を訊かせてもらうことにした。ナチュラルな英語を話し、UKスタイルのベースミュージックをプレイする彼らと話をしながら、僕はマニラの片隅で生まれつつある新たな胎動に思いを馳せていた。

──2人ともマニラ出身なんですか。

RED-I「そうだよ。僕はマニラのマリキーナ(Marikina)出身で、1981年生まれ」

T-CA$H「マリキーナはマニラの中心地から離れていて、下町という感じの地域ですね」

──SOUL FLOWERは?

SOUL FLOWER「私はマカティ(Makati)っていうビジネスの中心地」

T-CA$H「ファッションや音楽の流行はいつもマカティから発信されるんです。高級デパートも多いですし、日本人はたいてい治安のいいマカティに住むんですよ」

──じゃあ、マリキーナとマカティは全然カラーの違う場所なわけですね。

T-CA$H「そうですね。車で30分ぐらいしか離れてないんですけど、マリキーナはダウンタウン、マカティはアップタウンなので雰囲気もだいぶ違いますし」

──2人が子供の頃に聴いていた音楽は?

RED-I「父がジャズ・ミュージシャンだったからジャズはよく耳にしていた。彼はドラマーをやっていて、マニラ中のライヴハウスやローカル・バーで演奏していたんだ。あとはヒップホップ。コンシャス・ヒップホップだよ」

SOUL FLOWER「ヒップホップ黄金時代の頃のトラックよね」

RED-I「そうそう。ディガブル・プラネッツ、トライブ・コールド・クエスト、ルーツ、あとはDJ KRUSH。僕は高校生の頃からレゲエ/ヒップホップのバンドをやっていて、そこでヴォーカルを担当していたんだ。ピュア・ナチュラルというバンドだったよ」

──REDは81年生まれだから、ピュア・ナチュラルをやっていたのは90年代後半だったわけですよね。その前にマニラでヒップホップをやっていたのはどういったアーティストだったんですか。

RED-I「僕も大好きだったのはフランシス・マガロナ(Francis Magalona/注1)。彼はフィリピンの伝説的なヒップホップ・アーティストだね。レゲエならばトロピカル・ディプレッション(Tropical Depression/注2)」

注 1:フランシス・マガロナ/80年代半ばからブレイク・ダンサーとしての活動をスタート。1990年にフィリピンで最初のラップ・アルバムとも言われる 『Yo!』をリリース。以降、<フランシスM>名義で数多くの作品を発表。タレントとしても勢力的な活動を続けるものの、2009年3月、白血病のため 44歳で死去。

注2:トロピカル・ディプレッション/DJとしても活動するパパドム(Papadom)率いるルーツ系レゲエ・バンド。

T-CA$H「フィリピンは70~80年代にものすごい数のミュージシャンがいて、欧米の音楽自体もかなり入ってきていたんですよ。レゲエやヒップホップもほぼリアルタイムで入ってきたそうで、ヒップホップのグループも昔からたくさんいたんです」

──米軍(注3)の影響もあったのでしょうか。

注3:フィリピン駐留米軍/1991年にアメリカに返還されるまで、フィリピンにはアジア最大の米軍基地とされていたスービック海軍基地があり、先述したようにアジア駐留米軍の重要拠点となっていた。

T-CA$H「それもあったとは思いますけど、フィリピンは今も昔も(全米)トップ40の音楽が人気なんですね。みんなMTVから情報を得ている部分もあると思います。あと、レゲエに関して言えば、レゲエ=ボブ・マーリーなんです。それは東南アジア全般的に同じ感じだと思うんですけど、ボブ・マーリーから受けたインスピレーションを元にスタートしたバンドがフィリピンには多いんですね」

──なるほど。では、マニラのアンダーグラウンド・クラブ・シーンが始まったのはいつごろだと思いますか。

RED-I「90年代初頭じゃないかな。その頃のマリキーナにはたくさんのメタル・バンドがいてね、僕もときどきライヴを観にいてたんだけど、マニラ全体を見ればその頃すでにローカルなヒップホップ・シーンも形成されつつあったと思う。90年代のマニラではめちゃくちゃヒップホップが流行ってたからね。2000年代初頭には僕らもレイヴ・パーティーに遊びに行くようになって、それからエレクトロニック・ミュージックに興味を持つようになった。僕がDJを始めたのがそれからのことなんだ。当時はたくさんのレイヴ・パーティーが行われていて、ひとつのエリアではドラムンベース、ほかのエリアでハウス、もうひとつのエリアでニンジャ・チューンみたいなダウンテンポがかかってるような感じだったんだ。そういうレイヴ・パーティーに行くようになってから僕の人生は 大きく変わった。それまで関わっていたバンド中心のシーンとはまったく違っていたからね」

──90年代に活動していたラッパーはタガログ語でラップしていたんですか。

RED-I「そうだね、ほとんどタガログ語だったと思う。オニックスみたいな音の上でタガログ語でラップするのがローカルのスタイルだった」

──今は英語のほうが多いんですか?

T-CA$H「フィリピンにフリップトップ(FlipTop)っていうシーンがあるんですけど、それはオケなしでやるラップ・バトルなんですね。フリップトッ プはもうインターナショナルなものになっていて、とあるフリップトップの動画はYoutubeの再生回数で世界でトップに入ったという話もあって。それは 全部タガログ語でやってて、熱いシーンが作られているんです」

──それは面白いですね。

T-CA$H「マニラだと町のお祭りでもラップ・バトルが開催されたりするんですよ。特にマリキーナ、トンドのほうはヒップホップの人気がすごくて、ラッパーもたくさんいるんです」

フリップトップに関しては、何よりも下の映像を観てほしい。2012年12月段階(公開から半年)で再生回数はなんと1,200万オーヴァー。不勉強のため現段階ではボンヤリとしたことしか言えないが、ここには何かフィリピン伝統の語り芸や口上のようなものが背景にある気がしてならない。フリースタイルのラップ・バトルというスタイルを取りながらも、単にアメリカの物まねではないフィリピン土着のものが噴出している。オーディエンスの盛り上がりもハンパじゃないし、すぐにでも現地取材にいかないと!という気持ちにさせられる。

もうひとつ、先のRED-Iの発言にあったフランシス・マガロナの楽曲も紹介しておく。この“Kaleidoscope World”は彼が2000年に発表したヒット曲で、現在まで数多くのアーティストにカヴァーされてきた代表曲。ポップ/ロックにクロスオーヴァーしながら独自のミクスチャー・ミュージックを作ってきたフランシスらしい1曲と言えるかもしれない。

──では、SOUL FLOWERにも子供の頃聴いていた音楽を訊いてみましょうか。

SOUL FLOWER「私の父もミュージシャンだったの。だから自宅では本当にたくさんの音楽が鳴ってた。ボブ・マーリーやレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスや60~70年代の音楽ね。あと、私個人はニューソウルが大好きで、エリカ・バドゥやジル・スコットを聴いていた。その後エレクトロニック・ ミュージックにハマっていったの」

──フィリピンの音楽はどうですか。

SOUL FLOWER「そんなに聴いてなかったわ。海外のものばかり聴いてた」

──同世代の友人たちも同じように海外の音楽を聴いてた?

SOUL FLOWER「そうね。私はインターナショナル・スクールに通っていたから」

T-CA$H「彼女のお母さんはハワイの方なんですよ。お父さんはフィリンピンの人で」

──DJをはじめたきっかけは?

SOUL FLOWER「REDとの出会いが大きかったわ。彼にDJのやり方を教えてもらったの。それが2005年ごろ」

──じゃあ、RED-I率いるRED-I SOUNDSYSTEMと<B-SIDE>のことを説明してもらえますか。

RED-I「RED-I SOUNDSYSTEMは2008年ごろ始めたんだけど、僕とSOUL FLOWER、それとDON-Pの3人で構成されている。他のハコでやってるヒップホップのパーティーにも持っていけるように可動式のサウンドシステムを作ったんだ。僕らがやっているような音楽はマニラではまだまだアンダーグラウンドだから、その魅力をいい音で伝えたくてね。若者たちのためにプレイしているようなところがあるんだ」

T-CA$H「DON-PはB-SIDEのマネージメントもやってるんです」

──B-SIDEがオープンしたのはいつなんですか。

RED-I「3年前。DON-Pはそれ以前からバーをやっていて、2008年に一端クローズすることになるんだけど、<彼にもしもう一度店を開くことがあったら教えてくれよ>と伝えてあったんだ。僕のなかにはB-SIDEの構想がすでにあったからね。2009年ごろ、DON-Pが場所を見つけてきてね。サウンドシステムも持ち込めるし、新しいアンダーグラウンド・シーンを始めるにはパーフェクトな場所だった。それで、B-SIDEを始めることにしたんだ」

SOUL FLOWER「場所を見つけてから3か月後にはもうオープンしていたわ(笑)」

RED-I「そうだった(笑)。それぐらいエキサイトしていたんだ」

──B-SIDEのコンセプトは?

SOUL FLOWER「マニラのローカル・アクトやアンダーグラウンドのミュージシャンのプラットフォームを作りたかったの」

RED-I「他の場所でかかっているようなメインストリームのものではなく、本当のアンダーグラウンド・シーンの拠点にしたかったんだ。パンクやスカ、ソウル、ヒップホップ、そしてエレクトロニック・ミュージックを僕らはサポートしていきたいと思っている」

SOUL FLOWER「B-SIDEではいろんなパーティーをやってるんだけど、レゲエはやっぱり支持されているわ。<IRIE SUNDAY>や<BOOM BAP FRIDAY>みたいなパーティーはすごく盛り上がっているし」

RED-I「ソウルのバンドナイトもやってるし、さまざまなジャンルのローカル・アクトをサポートしていければと思ってる」

T-CA$H「B-SIDEってすごく分かりにくい場所にあるんですよ。メインのストリートから離れていて、外からは倉庫にしか見えないんですけど、中にはお 洒落なセレクトショップも入ってて。そういう場所はマニラにそこしかないと思います。日本は昔からコアな音楽が大切にされてきましたけど、海外ではとにかく集客できる音楽ばかりがプッシュされてて、そのためどこのハコでもトップ40ものばかりがかかってる。でも、アンダーグラウンドで頑張ってる人は90年代からいて、彼らはそういう人たちもサポートしてるんです」

──B-SIDEのオープン以降、ダブステップのようなベースミュージックは増えてる?

RED-I「確実に増えてるね。Bサイドをオープンさせる前から<Dubplate>というイベントを日曜の夜8時にやっていたんだけど、その頃はお客さんも少ししかいなかったよ」

SOUL FLOWER「あと、トラックを手に入れてから状況が変わったの」

RED-I「そうだね。DJブースを積んだトラックを手に入れたことで、ダウンタウンのほうでもプレイできるようになったからね。マリキーナにある<Cubao X>というヴェニューで定期的にプレイするようになったのもトラックを手に入れて以降のことだから」

SOUL FLOWER「私たちがマニラで初めてベースミュージックのパーティーを始めたと思う。それまでマニラの人たちはベースミュージックを聴いたことがなかったと思うし、みんな気に入ってくれてるんじゃないかしら」

RED-I「続けていかないといけないだろうしね。次のパーティーではガスランプ・キラーを呼ぶんだけど、そのことによってまた状況が変わるかもしれない」

──B-SIDEの客層はどんな感じなんですか。

T-CA$H「イヴェントによって違うんですが、7割ぐらいがフィリピン人、2割が欧米人、残りの1割がアフリカンとフィリピン人以外のアジア人ですね。マニラってハブ空港なので、いろんな人がやってくるんですよ」

──他のアジアのシーンとの交流についてはどう考えています?

SOUL FLOWER「東南アジアの他の国々のシーンともいい関係を作れてると思う。<BEATS SAIGON>を主宰しているホーチミンのDJジェイス(注4)や、マレーシアやタイのDJたち……。インターナショナルなアーティストを招聘するとき、アジアのなかでツアーできればひとりひとりのオーガナイザーの負担は減るから、アジアの関係者との繋がりはもっと深めたいと思っているの」

注4:DJジェイス/ホーチミン在住のDJ、プロデューサー。アジア・ベースミュージック・シーンのキーパーソンのひとり。欧米の関係者とのパイプも太い。

RED-I「そうすればもっと気軽に他国のアーティストを呼べるようになるからね」

SOUL FLOWER「同じベースミュージックを聴いているんだから、政治的問題を越えて繋がっていくべきだと私は思うわ」

──今後の活動についてはどんなイメージを持っていますか。

RED-I「来年は僕のセカンド・アルバムを出したいと思っているし、ベースミュージックやレゲエのパーティーをもっとやっていきたいとも思ってる。今やっていることは僕らがやりたいことの<始まり>に過ぎないからね」

サウンドシステムを搭載したトラックでアップタウンとダウンタウンを行き来するRED-IとSOUL FLOWER。アジア各国のシーンと連携しながら、マニラの夜をさらに盛り上げようとしている彼らにはもっと聞きたいこともあったのだが、続きは夜のマニラで話すことにしよう。
 AIR ASIA、ジェットスターなどのLCCを使えばマニラまで大してお金もかからないし、軽い気持ちでB-SIDEまで遊びにいくのもアリかもしれない。貧困と民族紛争のイメージばかりに囚われていると、東南アジアで生まれつつある新しい動きを見逃しちゃうかもよ。

B-SIDE:http://www.bsidemanila.com/

INTERVIEW 

秋田の過疎地に鳴り響く、祈りにも似たルーツ・ロック・レゲエ――英心&The Meditationalies

取材・文/大石始
写真/ケイコ・K・オオイシ

 2017年1月、僕らは秋田県山本郡三種町鹿渡にいた。JR秋田駅から奥羽本線に乗り換えて40分ほど。海まではさほど離れていないため、他の豪雪地帯に比べれば降雪量自体はそれほど多くないものの、曇り空の下を吹き抜ける北風は震えるほど冷たい。駅を降りて周囲を見回すと、歩いている人はおろか、一台の車すら走っていない。
 この鹿渡に、松庵寺という古刹が建っている。創建は天文年間(1532~54年)。かの紀行作家・菅江真澄も訪れたという由緒正しい寺だ。
 英心くんは、ここで副住職を務めながら、マイペースな音楽活動を続けている。僕が彼と知り合ったのはコロリダスという陽気な南国音楽楽団の打楽器奏者としてだったが、のちに地元の仲間たちと英心 & The Meditationaliesというレゲエ・バンドを結成。みずからフロントに立ち、2015年にはファースト・アルバム『からっぽ 』を、2018年晩夏にはセカンド・アルバムとなる『過疎地の出来事』をリリースした。
『からっぽ 』を初めて聴いたとき、僕はとても驚いた。地元秋田の美しさを語りながらも、過疎地の厳しい現実を織り込んだ英心くんの歌には、気休めでも現実逃避的でもない「希望」が綴られていた。その一方で、歌の背景には光さえ差し込まぬ曇天の気配があった。酒場で泥酔して大騒ぎしたり、コロリダスのライヴでみんなを陽気に盛り上げている彼の姿しか知らなかった僕は、英心くんのなかにそんな「影」の部分が潜んでいることなど、まったく気が付きもしなかったのだ。
 英心くんはいったいどんな場所に住んでいるんだろう?――そんな思いを膨らませた僕らは、彼の住む町を訪ねることになったのだった。(なお、本稿は2017年の年明けに某媒体用に取材したものの、諸事情あってお蔵入りとなっていたインタヴューを再構成したものである)

 英心くんの1日は、毎朝6時半にお経を唱えることから始まる。前日深い時間まで一緒に酒を酌み交わしたというのに、彼はその朝も何事もなかったようにお経を唱え、松庵寺のなかを案内してくれた(僕はというと、案の定しっかり二日酔いになり、布団から這いつくばるように抜け出す始末だった)。
 先述したように松庵寺は天文年間に創建されたが、当時は別の場所にあり、300年ほど前に現在の場所へと移転した。英心くんは「うちは幸いにも火事にあってないので、本堂の基礎もそのときのままですし、過去帳も400年前のものがまだ残ってるんです」と話す。
 ふと一枚の写真に目が止まった。英心くんのひいお爺さまの写真だそうで、「よく似てるって言われるんですよ」と英心くんは笑う。僕は曽祖父の顔も知らなければ、名前すら知らないけれど、英心くんは日常的にご先祖さまの存在に触れ、数百年もの時間軸のなかに自分が存在していることを実感しながら日々を暮らしている。
 また、彼から話を聞くまでまったく知らなかったのだが、冬場になるとお墓参りのできなくなる雪国には、寺内に設置された位牌所にお参りをする習慣があるという。松庵寺の本堂のなかにも数多くの位牌が並んでおり、その横には太平洋戦争の戦没者たちの名前が列挙されている。ここにはかつてこの町に住んだ人々の記憶も積み重なっているわけだ。

 インタヴューは英心くんの音楽部屋で行われることになった。歌やパーカッションであればレコーディングすることもできる、彼のホーム・スタジオである。本堂からその音楽部屋に向かう道すがら、今にも雪が降り始めそうな曇天を見つめながら、彼はポツリと呟いた――「秋田は日照時間が短いんです。それが自殺率の高さに繋がってるんじゃないかな」

――子供のころから僧侶になるものだと思っていた?

英心「そうですね。長男として生まれましたし、祖父や檀家さんも僕のことを跡取りだと思ってましたから」

――そのことについてはどう思ってたんですか。

英心「うーん……物心ついたころからお経を読んでたんですけど、中学生のころはやっぱりイヤでしたね。最初から自分の人生を決められていて、なおかつ周囲とは違う坊さんという人間になることを決定づけられているわけで。当時は『自分はミュージシャンになる!』と言ってたけど、その一方では結局(寺を)継ぐことにはなるだろうなとも思ってました」

――反発があったけど、諦めみたいなものもあった。

英心「そうですね。その反発の部分と結びついたのがパンクだったんですよ。高校のときはメロコア全盛期だったんで、ハイスタやブラフマン、それと青春パンクが好きでした」

――それが音楽との最初の出会いだった?

英心「ピアノは幼稚園から習ってたんです。最初に衝撃を受けたのは、秋田市のアトリオンというホールで観たオーケストラ。そのとき音楽ってすごいなと初めて思いました。中2でアコギを買って山崎まさよしなどを弾き語りでやってたんですけど、その後ベースを弾くようになってからハイスタのことを知りました」

――大学進学で上京しますね。東京には出たかった?

英心「都会志向だったし、自分の生まれた場所へのコンプレックスがすごくあったんです。このあたりの子たちは能代市の高校に進学することが多いんですけど、少しでも都会のほうに行きたくて秋田市の高校に行ったぐらいで(笑)」

――大学に入ってから本格的に音楽活動も始めます。のちにコロリダスを結成することになる(しみず)けんたくんは同級生だったと。

英心「そうです。学部は違うんですけど、入学してすぐに仲良くなりました。『ラテンアメリカ研究会っていうサークルがあるから行ってみようよ』とけんたに誘われたんですけど、最初は抵抗感があったんです。メロコアとかを聴いてたんで、ラテンなんて格好悪いと。でも、バトゥカーダを初めて聴いたとき、すごく感動したんです。太鼓だけのアンサンブルなのにこんなにすごいんだ!って」

 そこから英心くんの音楽世界は一気に広がった。ペドロ・ルイスやマノ・ネグラにハマり、マノ・ネグラのヴォーカリストであるマヌ・チャオのコピー・バンドも始めた。また、ボサノヴァやサンバヘギを演奏する一方で、ジルベルト・ジルのボブ・マーリー・カヴァー集をきっかけにレゲエにものめり込んでいく。
 大学卒業後の英心くんは、曹洞宗の大本山である永平寺(福井県永平寺町)で1年間修行したあと、四谷の東長寺で2年、さらには2010年9月から2011年8月までの約1年間、ブラジルはサンパウロの佛心寺に勤めた。まさに憧れのブラジル。「憧れていた人たちのライヴもたくさん観れたし、日本と違ってすべてが開放的だし、最高でしたね」という充実した日々を経て、日本に帰国。ブラジル渡航前に結成していたコロリダスの活動のため、東京と秋田を行き来する日々を送るようになる。

――秋田に戻らないで東京で音楽活動をやりたいという気持ちはなかった?

英心「あまりなかったですね。東京のお寺に勤めていたときって時間が本当になくて、週末は絶対休めなかったんですよ。だから、音楽活動のことを考えたら実家にいたほうが動きやすいだろうと。あと、音楽活動に対して親父の理解があったことが大きいですね。『ライヴのときは寺を空けてもいいから(秋田へ)帰ってこい』と言われていたので。すごくありがたかったですね」

――秋田に戻ってもコロリダスは続けていこうという意識はあったわけですね。

英心「それはありました。バンドを始めてすぐにポンポンとライヴが決まっていったし、なによりも楽しかったんですよね」

――コロリダスはブラジル音楽やカリブ音楽に軸足を置いているけれど、向こうのスタイルをなぞるんじゃなくて、自分たちのスタイルを大切にしてますよね。

英心「いくらブラジルやキューバで太鼓を習っても、彼らとまったく同じようには演奏できないなと思っちゃったんですよね。日本人なりに解釈したラテン音楽しかできないだろうと。そこはけんたと一緒なんです。そのままやっても僕ら自身が物足りないし、自分たちなりの解釈を加えてアップデートしたポップスをやりたかったんです」

 コロリダスは2013年に『デパート』、2016年に『coloridas』という2枚のアルバムをリリース。順調な活動を続ける一方で、英心くんは自身のバンドである英心&The Meditationaliesを始動させる。
「秋田にいる時間がだんだん長くなってきたんですよ。前はライヴの前後に何日か東京に滞在して遊んでたんですけど、それも面倒になっちゃって。だからといって音楽をやらないのも寂しいので、正月の余った時間を使って“秋田濃厚民族”という曲を宅録で作ってみたんです。秋田には知り合いのミュージシャンがあまりいなかったので、全部ひとりで演奏しました」
 この“秋田濃厚民族”が決定的名曲だった。秋田のPRソングを装っていながらも、「寂しい時もあるさ/生きろあるがまま」という言葉が挟み込まれるこの曲には、英心くんが幼少時代から育んでいたであろう深い情感が刻み込まれていた。そして、この曲を原型として、英心くんは自身の歌世界を開花させていく。

英心「ブラジルから帰ってきたら意識が変わっちゃって、たとえ秋田だろうと東京だろうと、日本にいたらだったらどこでも一緒なんじゃないかと思うようになったんです。東京でガツガツやることに意味を感じなくなったというか。ただ、“秋田濃厚民族”の段階ではまだバンドを作るまでは考えてなかったんです。コロリダスでは曲も作ってなかったし、歌もそんなに歌ってなかったので」

――“秋田濃厚民族”にはThe Meditationaliesのメッセージの原型がありますよね。秋田という土地をどのように見つめ、どのように歌うか。そこには単に秋田の魅力を発信するんじゃなくて、寂しさや厳しさも刻み込まれていました。

英心「当時、秋田で国民文化祭が行われるということもあって、秋田の景観や文化をPRする歌が氾濫してたんですよ。でも、そんなにいいところじゃねえぞ?という違和感があった。でも、そのなかでもいいところだってあるし……という気持ちのなかで“秋田濃厚民族”の歌詞を書いたんです」

――曲調もマイナー調の、秋田の曇天みたいな感じだし。

英心「そうですね。毎日ずっと曇り空で、しかも自殺された方のお葬式もやったりしていると、とびきり明るい曲なんて書けないなと思ったんです」


 ジャマイカのルーツ・レゲエには、たとえ陽気な曲調であったとしても、その背景には日々の葛藤と苦しみが滲んでいる。強さと弱さ、幸福と苦悩、愛と憎しみ、生と死――そのように相反するものが渾然一体となっている。
 英心くんの歌に潜む「影」も、そうしたルーツ・レゲエの背後に広がっているものと同じ類のものと言える。それは確かに秋田の過疎地で育まれたものかもしれないけれど、キングストンやリオデジャネイロのゲットーに宿るものと決して別物ではない。そして、彼の歌には、ローカルを突き詰めていったときに突然世界のどこかの「ローカル」と繋がってしまうような不思議な感覚、たとえばマヌ・チャオの歌を聴いているときに感じるようなものが確かに広がっている。英心くんはこう話す。
「昔はとにかく自分にとっての『しがらみ』から離れたくて音楽をやってたんですよ。でも、こっちに戻ってくると、自分の持ってるものでしか何も生み出せないことに気づいたんです。音楽と宗教はもともと密接な関係にあるし、ご詠歌やお経だって音楽。ないものをひねり出すんじゃなくて、あるものから生み出していけばいいんじゃないかと思えるようになったんです」

――英心&The Meditationaliesの活動を始めたのは2014年。

英心「そうですね。メンバーみんなレゲエを演奏した経験がなかったので、ひとつひとつのフレーズを『こうやってください!』と教えながら始めたんです。それが結構大変でしたね」

――2015年のアルバム『からっぽ』には仏教的視点がはっきりと現れてましたよね。

英心「これしかできなかったということはありますね。それが自分の自然体なんだと思いますし。基本的には自分語りなんですよ。自分のこと、身の回りのことしか語れない。人の人生は歌えないんです。自分が輝けば世界は輝くという発想が仏教にもラスタにもあるんですけど、自己と他者は同じというか、I&Iみたいな感覚がある。歌詞を書くうえで、少なくとも自分を肯定しなきゃダメだなとは思ってますね」

――秋田に対しても、見方を変えることによって風景は変わっていった?

英心「まったくそのとおりです。こんな町だけど、自分が変われば何かが変わる。この曇り空だって、『昨日よりはいくらか明るいほうだ』と捉えることによってマインドが変わるんですよね。この雲を晴らそうと考えるんじゃなくて、まだ明るいほうだと捉える。それが世界の変え方のひとつなんじゃないかと思ったんです」

 もちろん、状況は決して楽観視できるものではない。英心くんは2013年から松庵寺を舞台に「松庵寺郷土祭り」という祭りをスタート。これまでにコロリダスや青谷明日香が出演したほか、最近では英心くんプロデュースによる婚活イヴェントなども開催している。

英心「過疎化は本当に深刻なんですよ。僕が子供のころはまだ団塊ジュニアの世代がいたんですけど、急激に子供が少なくなっている。何もないと本当に寂しい町ですね。檀家さんと話していても『寂しくなったな、この町も』と口々に嘆いてて……地方はどこでもそうなのかもしれないけど、ヤバい状況だと思います」

――「自分の世代でなんとかしないと」という使命感がある?

英心「『俺が変えるんだ!』という意識を持っても必ず壁にブツかってしまうし、そう簡単に変えれるわけでもないんですけどね。そう考えるのであれば、『ここで生きるのが楽しいんだぞ』という気持ちを持って、それを行動に移せばいいと思ってるんですよ。まずは自分が楽しむために音楽をやったり、祭りをやったりしてるんです」

――「松庵寺郷土祭り」の反響はどうですか?

英心「老若男女が寺に集まって楽しそうにしてるわけで、すごく嬉しかった。遠方からいろんな人も来てくれるようになりましたね。高齢者から子供たちまで楽しめる仕掛けを考え続けないといけないとは思ってます。最近は寺離れの傾向もあるし、寺をもう一度人が集まる場所にしたいんです」

――英心くんがさっき言ってた「見方を変えれば、世界は変わる」という話は、秋田以外でも通じるものですよね。その言葉に勇気付けられる人は多いと思う。

英心「そうだと嬉しいですね。僕も秋田に帰って坊さんになったら音楽活動は終わりだと思ってたんですよ。でも、秋田でも音楽はできるし、考え方を変えたら気が楽になりましたよね。すごく楽しくなりましたし」

 英心くんの歌には死者に対して手を合わせるような感覚があるが、その一方では、生者に対する賛美のエネルギーにも満ち溢れている。こうした歌が東京や大阪のような都市部ではなく、秋田の過疎地から届けられたことに意味があるんじゃないかと僕は思っている。ここには東京にいるだけでは決して見えてこない地方の現実が描き出されているが、ここから新たな「ニッポンの歌」が立ち上がるのだ、という静かな高揚感のようなものもある。
 なお、英心くん主催による「松庵寺郷土祭り」は毎年8月の第一土曜日開催。きっと初めて訪れた方も英心くんの人懐っこい笑顔に触れれば、自分の地元に帰ってきたような安堵感を覚えるはずだ。

三陸のお盆 その2 菅窪鹿踊


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2017年8月14日朝5時。宮古は濃霧で視界が悪く、車の運転も慎重になる。今回の旅の目的は、菅窪鹿踊(すげのくぼししおどり)を墓地で撮ること。事前に保存会顧問の畠山さんから「雨天中止、しかもここ10日間大雨が降り続いていて当日も予報によるとおそらく雨」と事前に聞いていた。私は行くかどうか散々迷った挙句、もうここまで来たらたとえ雨で中止でも行った方が後悔しないと決めて、「明日雨でも行きます。では朝8時に墓地に伺います」と電話を切った。

菅窪は、宮古から車で1時間。太平洋沿に北上する。近隣の名勝地は「鵜の巣断崖」。海抜は約200m。

先の投稿(三陸のお盆 その1)でも触れたけれど、復興道路というだけにとにかくあちこちで工事をしていた。実際にグーグルマップのナビで走行中に、ナビが急にエラー状態になり、現在地を示す矢印がグルグルと回転し出した(パソコンがフリーズして再起動するしかない状態みたいに)のには、心底動揺した。こんなの初めてだ。元あった道が途中でぷっつりと切れていたのだ。私は途中で閉ざされた道の写真を撮り、その近くにある新しい道を走った。

地図で見て海沿いを走るものだと思っていたけれど、菅窪へ行く道中はうねうねと曲がりくねった山道が続く。窓を開けると高原のようなキリリと冷たくて気持ち良い空気が入ってくる。田野畑村に入る「思惟大橋」までやって来た。またこの橋が大きく、下を見ると随分標高の高いところに来たなとわかる。高所恐怖症の方なら足がすくむ高さだと思う。

保存会の畠山さんに菅窪の墓地への大体の道順は電話で教わっていたが「場所がわからなかったら、思惟大橋近くの道の駅で誰かに聞けばいいと思う」とのことだったので、早速開店準備中のおばちゃんに聞いてみる。
「すみません、菅窪の鹿踊をやってるって聞いて、お墓の場所を知りたいのですけど」
「ごめんなさいねぇ、私ここの集落のもんじゃないのでわからないのよ」
「あ…そうですか(落胆)。ありがとうございます(うわーここでわからないとなると苦戦しそうだ…約束の時間まで30分だけど辿りつけるかな…)」
私の凹みっぷりに気を使ってくださったのか、他のスタッフの方にも聞いて見てくださって、声をかけてくれた。
「あのね、菅窪の集落だったらこの1キロ先に行ったとこにあるけど、お墓はわからないなぁ」
「あ、そうですか…いってみます、ありがとうございます!」

電話で聞いた道順通りに車を走らせてみるけれど、どうも墓場らしいところが見つからない。アポの時間が近づいているのでご自宅に電話してみるが、不在。携帯の電話番号を聞いておかなかったことを悔やんでも仕方ないのでガソリンスタンドのお兄さんに聞いてみるけれど「ここの集落のものじゃないんでわからないです」とのこと。

私たちのような遠くから来るものは近所の人なら当然知っているだろうと勝手に思い込むけれど、祭りや行事というのは当事者かその近い人しか知らないことが結構ある。東京に住んでいたって隣町のお祭りの場所を正確に把握している人の方が少ないのと同じことだ。

8時を少し過ぎたあたりで電話に奥様が出てくださって、畠山さんは墓地にいるとのこと(そうですよね)。道に迷っていることを話すと「じゃあ、ついて来てください」とわかりやすい大通りから車で案内してくださった。

墓地は生い茂った森の中にあった。何度も近くを通っていたのに奥に墓地があるとは気がつかなかった。
畠山さんと合流し、道に迷って時間に遅れたことをお詫びし、やはり今日は雨のため墓踊りは中止だけれど鹿頭の撮影は構わないとのことで、鹿踊保存会の建物へ移動する。

村の集会場のような建物。近辺は牧場でふと振り向くと牛と目が合う。建物の奥の方に鹿頭は仕舞われていた。
角が大きく存在感があって、黒い肌に金色で塗られた瞳は凛々しいけれども同時に恐さも感じさせられる。

鹿踊は東北地方で広まり、2017年現在では雄々しいクリーチャーのような非リアル系の造形の鹿頭の鹿踊の方が有名だと思う。
こちら菅窪鹿踊は本物の鹿に近い造形のリアル系。この系統の鹿頭は菅窪と宇和島にしかない。

菅窪鹿踊の起原伝承はこうだ。

「鹿島神宮の御祭神である武甕槌ノ尊(たけみかづちのみこと)が戦いの際に火に囲まれ、身の危険がせまった時にどこからか無数の鹿が現れ、湖に飛び込んでは身を濡らし、駆け上がっては火の中を駆け巡ることを繰り返した。これによって猛火は消え武甕槌ノ尊の安全は守られたが、火が消えるとともに鹿も姿を消した。武甕槌ノ尊は感激し、その報謝の為に「鹿踊」を創始した。」

「菅窪へ鹿踊が入ってきたのは、武蔵国秩父の畠山氏一族が、源頼朝幕府の命によって蝦夷に備える為に入ってきた。関東往復の際「鹿島鹿踊」を知って、請来したのが始まりとされている。その後江戸中期、念仏踊を取り入れ神前演能だけでなく仏前演能も行うようになった。」

私は事前に調べていた時に見た「浄財」と書いてある賽銭箱の上に鹿頭が鎮座している写真が気になっていて、畠山さんに聞いてみた。
「鹿頭が賽銭箱の上に乗っているのは、どういう意味があるんですか?」
「鹿は神の使いだからです。」

私はこの後東京に帰ってから春日大社の宮司さんであった葉室頼昭さんの本を読んでいたのだが、そこにこう書いてあった。

「どうして鹿島の神様がシカに乗ってこられたかというと、シカというのは不思議な、未来を見る能力を持った動物であると言われています。『古事記』にも書いてありますが、吉凶を占う占いにはよくシカが関係しています。いちばん有名な占いというのは、シカの肩甲骨を焼いて占うというのがありますね。だから、そうした不思議な予知能力のあるシカを神獣として崇めていた。」ーー「神道 見えないものの力」葉室頼昭 より

シカの骨の占いーー歴史の教科書で出て来た加持祈祷のこと。今でも御嶽山では加持祈祷の儀式が行われている。

そうか、あの加持祈祷のシカなのか、だからシカを崇めての鹿踊なのか… !
アニミズム的な、まるでアフリカのドゴン族が砂漠にワニを連れて行くとそこから泉が湧く…みたいな自然崇拝。なんだかすごくゾクゾクする。

結局雨で中止になってしまい墓踊りは撮れなかった。
今年の春夏はプライベートなことでも思うようにいかないことが多く気分が沈みがちで体調もあまり良くなく、撮影に行く気力も今ひとつという状態が続いていた。

でも思い切って三陸に来てみたら、なんともファンタジックなところで驚いた。極楽浄土のようだから、浄土ヶ浜。(実際は霧しか見えなかったけど)なんとも幻想的なネーミングの浜を通過してたどり着いたのは、霞みがかった牧場。まるでジブリのアニメの世界のようでもある。こんな深い緑に囲まれて安らかに眠りについているご先祖様方の慰霊のために墓場で勇壮に踊る鹿踊…が撮れたらよかったんだけど、まあ、お天気ばかりは仕方がない。けれど本当はせっかく時間と労力をかけたのだから、いい写真撮りたかったなぁ、という残念な思いは拭えず。なんでも損得で計算してしまう自分の悲しい性、これこそどうかしている。

それよりも、鹿踊について気になっていたこと。

いろいろな動物がいるけど、鹿踊りってなんでシカなんだろう?という素朴な疑問。私なりに答えてみると、

シカは神の使い。日本神話に登場する武甕槌ノ尊が戦火に囲まれた時に鹿がどこからともなく現れ助けてくれ、その報謝として鹿踊りを創始したと伝えられている。また加持祈祷で使われるほどシカは特殊な予知能力を秘めた生物だ。だから人は鹿の能力を神獣として崇め、鹿踊を舞い神に奉納し、いつしかそれは念仏踊りのエッセンスも加わり祖霊崇拝の意味合いも兼ねながら、現在まで連綿と続いているのではないか。

もちろん菅窪鹿踊の起源は先に書いたものが正式だ。各地の鹿踊りの起源は諸説あり、地域や流派によってもさまざまだ。殺された鹿の供養説や、山で遊ぶ鹿の野性を真似た遊戯模倣説などもある。獅子踊りと表記するところもある。始めた先人たちとその祭りに関わった人たちがああだこうだと工夫して永い時間をかけて現在まで続いている、その結果としての彩りが美しくて独特だから惹かれてしまう。だから、わからないことも楽しむ姿勢が、今に生きるものとしてはいいのではないか。わからないからこそ生き残ったということもあるかもしれないのだから。

そんなことを考えていてふと気がついた。自分の思い通りにいかないからといって、それが私の人生にとって結果的にムダなこととは限らない。どうなるかはこの先まだわからない。

そもそもの自分の思いの方向性が違っていたことを教えてくれているのかも。その欲しがっているものは自分にとって本当に重要なものではないのかも。捕らぬタヌキの皮算用に必死になってしまっていたけど、他人の持ち物を羨ましいと思わせる世の中の仕掛けにひっかかって惑わされているだけかも。

三陸のお盆はこんな当たり前すぎることを私に教えてくれたのかもしれない。

(ケイコ K. オオイシ)

「グラフィケーション」最新号でB.O.Nの活動を取り上げていただきました!

1969年に創刊され、紙媒体から電子マガジンとして形態は変わりながらも発行が続く富士ゼロックスの老舗メディア「グラフィケーション」最新号の特集「祭りの新地平」で取材していただきました。しかもドドンと12ページ! 祭り文化との出会いから祭り・盆踊りを取り巻く現状について話しまくっております。もちろんケイコ・K・オオイシの写真もたっぷり。あまりの大フィーチャーぶりに恐縮になってしまうほどです。

特集内には栗原康さんや畑中章宏さん(民俗学者)の論考のほか、ケイコ・K・オオイシの大学時代の恩師である谷口雅さんの連載も。かなり読み応えのある内容となっています。

なお、こちらでアプリ版をダウンロードするか、もしくはPC用のリンクに飛べば丸ごと一冊無料で読むことができるとのこと。僕も後ほどじっくり読んでみたいと思います!
http://www.fujixerox.co.jp/…/graphicati…/current_number.html

(大石始)

大友良英さんとの対談記事がCINRAに掲載


今月15日に芸術監督を務める「アンサンブルズ東京」の開催を控える大友良英さんとの対談記事がCINRAにアップ。不器用な手つきで大風呂敷を縫う僕の写真なども掲載されてます(笑)。

大友さんには僕の著作『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)でも取材させていただきましたが、それ以降に僕が考えてきたことなども反映された対談になってるんじゃないかと。そしてなによりも、自分の思考を噛み砕き、誰にでも分かる言葉で伝えることのできる大友さんの凄さを再認識しました。やっぱり大友さんは凄いです。新刊の制作進行を進めているこのタイミングでお話できて本当によかったな。なかなか濃密な内容になっていると思うので、ぜひ読んでみてください!

大友良英が語る盆踊りと祭り。音楽が生まれる瞬間はどんなとき?
https://www.cinra.net/interview/201710-ensemblestokyo

(大石始)

石畳の町に鳴り響く幻想的な胡弓の音色――おわら風の盆(富山県富山市八尾)

一昨日は富山・八尾の「おわら風の盆」を初体験。祭り自体は23時に終了しますが、それ以降のアフターアワーズ的町流しの雰囲気が最高だと聞き、深夜から早朝まで八尾の町を徘徊してきました。

まず、石畳の道の脇を水路が流れ、道の両側には延々灯篭が立ち並ぶ八尾の街並みの美しさに驚かされました。祭りの舞台としてまさにパーフェクト。あそこまで絵になる伝統行事もなかなかないのではないでしょうか。

浄瑠璃や長唄に精通した芸妓たちが発展に寄与しただけあり、披露される歌と踊りは実に優雅で完成されたもの。芸妓という「芸のプロフェッショナル」たちが磨き上げた部分もかなり多いように感じました。また、風の盆というと胡弓の音色が特徴的ですが、こちらは明治後期から大正にかけて越後の佐藤千代という瞽女が持ち込んだものだとか。そのように八尾の芸妓たちやさまざまな旅芸人たちの息遣いが現在も感じられるのが風の盆の魅力に繋がっているのでしょう。

早朝の町流しは期待以上に幻想的。最後の町流しでは青年会の列の最後尾にささっと老婆が加わり、円熟味のある踊りをさりげなく披露していました。親から子へ、子から孫へ。「おわら風の盆」もまた、八尾の町内で長い時間をかけて伝わってきたことが実感させられた感動的なシーンでした。(大石始)

阿波おどりの熱狂が残る徳島への旅

NHKラジオ徳島放送局の「あわ☆メロR」に出演するため、久々に徳島に行ってきました。前回訪れたのは6年前、阿波おどりの真っ只中の8月。そのとき受けた人生観を揺さぶるほどの衝撃については昨年の著作『ニッポンのマツリズム』(アルテスパブリッシング)で記しましたが、それ以来の徳島です。

「あわ☆メロR」の放送ではミュージシャンの坂東道生さん、NHKアナウンサーの高山さんと3人で阿波おどりの魅力と可能性について楽しくお話してきました。徳島で阿波おどりについて話すということは、僕にとってはジャマイカのキングストンでレゲエに関する講演をするのと同じ。若干緊張しましたが、坂東さんと高山さんのおかげでリラックスしてお話しすることができました。

今回の旅ではもうひとつの目的がありました。
江戸時代末、現在に繋がる阿波の踊り文化が急速に発展した背景には、阿波の藍商人たちの存在がありました。裕福な藍商人たちは阿波の踊り文化を経済的に支える一方、各地を回りながらさまざまな文化を吸収、それを阿波へと持ち込みました。大島紬を作るために多くのすくも(藍の葉を原料とする染料)を必要とした奄美や、藍を育てるための肥料を生産していた熊本の牛深へと藍商人たちは立ち寄り、それぞれの土地の歌とリズムを阿波へと持ち帰ったのです。『ニッポンのマツリズム』でも書いたように、阿波おどりの背景にはそんな藍商人たちのネットワークがありました。

僕はいつかそうした藍商人たちのネットワークを一冊の本にまとめられないかと考えてきました。歌とリズムを伝えた、海のシルクロード。そんなイメージをぼんやりと頭のなかで思い描いているのですが、放送の翌日はその企画の下調べに費やしました。藍住や佐古などの地域を半日かけて自転車で走り回ってきたのですが、目的のひとつだった博物館「藍の館」が休館日でがっかり(笑)。とはいえ、いろいろと得るものもありました。とても印象的だったのは、徳島市南内町のカフェ/レストラン「Deili」(ステキなお店でした!)を営む河田真知子さんがおっしゃっていた「藍染と農業は繋がってますからね」という言葉。農業はそのまま人々の暮らしにも直結するわけで、勉強すべきことはまだまだ多そうです。

ちなみに、上の屏風絵は江戸時代の絵師、吉成葭亭が幕末の阿波に花開いた盆踊りの熱狂を瑞々しく描いた「阿波盆踊図屏風」(1850年)。ひとりひとりが思い思いのスタイルで踊り、着るものも多種多様。あらゆる多様性を内包したこの絵図が僕は好きで好きで仕方ないのですが、この絵のレプリカを阿波おどり会館で観れたことも大きな収穫でした。もちろん一糸乱れぬ現在の阿波おどりも素晴らしいですが、その背景にはいまだこうした多様性があり、その多様性の糸を解きほぐしていくと、その糸は南九州や南西諸島に繋がっているような気がしてならないのです。

10月にもまた徳島にお邪魔することになっているので、その際あらためていろんな方にお話を伺おうと思ってます。今回お世話になったみなさま、本当にありがとうございました!(大石始)

三陸のお盆 その1

毎年お盆になると祭りや盆踊りを撮影しに行く。でもずっと太平洋側の東北へ行くことを避けていた。海は怖いからだ。
お盆は天に帰られた方々が家に戻ってくる時期であり、また同時によからぬものもこの世に降りてくる時期でもある。

宮古は雨が10日近く降り続いていた。湿度は高いが、真夏だというのに長袖でも寒いし、濃霧のため日中でも薄暗い。
街中でお盆の迎え火用の提灯を手にした家族連れをちらほらと見かける。

東北なまりがいい味だしているレンタカー屋のお兄さんが気さくに話しかけてくれる。
「このカーナビ古いんです、新しい別のナビもあるんだけど…使い方がわからんもんで、ははは。すみません。」
私は深く考えず「あまり古いと道が変わっていますよね」と答えると、
「震災で道が激しく変わってしまっているもんで。しかも今工事しててどんどん新しい道ができるから、私たち地元の人間はみんなスマホのナビやグーグルマップを使ってるよ。1週間ごとに更新してるから、これが一番最新なんだよね、結局。だからカーナビ役に立たないんだよね」

私はカーナビがおいつかないくらい道がどんどん新しくなっているなんて、レンタカー屋のおにいさんに聞くまでまったく知らなかった。復興道路を作っている真っ最中だから考えて見たら当然のことかもしれないけど、結構ショックだった。

「おねーさんのいきたいホテルは、右に出てまっすぐいけば右側にあるから!」
「結局おにいさんがナビしてくれちゃったね。やっぱりナビいらないね!」
「あはは!お気をつけて!」

おそるおそるレンタカーを走らせると、復興道路の工事中の様子がぼんやりと霧の中に浮かび上がって視界に入ってくる。
「かつて津波がここに到達した」ことを知らせる標識があちこちにあり、時には建物の2階の高さ以上を示しているところもある。
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景勝地である浄土が浜を見る予定だったけれど、海岸は濃霧にすっぽりと覆われて水平線すら見えず、すべて霧の中。

私は6年前すべてを呑み込んだ海へ向かって、おろおろと怯えながら手を合わせることしかできない。圧倒的な無力感。

私には霧しか見えないけど、この海には帰ってきている方々や得体の知れないものたちがいる気配が確かにした。

寒いのでラーメンを食べた後、翌朝出発が早いので朝ご飯を買いにスーパーに寄った。

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レジのおばちゃんが私のバッグを見て「それ日本の?珍しい柄ね」と話しかけてくれた。
私は南米の少数民族の手編みバッグの説明をして、気になっていたこちらのお盆の様子を聞いてみた。

「このへんのお盆はお供えに煮しめをやるのよ。でも最近はたくさん作っても孫やなんかは食べないもんでね。だから私が作ってこうやってお供え用にパックにすると、ちょうどいいってみんな買っていくのよ。」
「私の母親は八戸出身なんですけど、お正月に煮しめつくりますね」
「そうそう、このへんも正月に煮しめやるのよー。盆と正月。でも最近の子はどっちにしても食べないもんでね、あはは」
「私は煮しめ好きですよー」
「あらそう?いつ宮古にきたの?ゆっくりしていってくださいね」

他のお客さんが入ってきたので私はお店を出た。
お店のおばちゃんが明るく話してくれて、すごくうれしくてホッとしてしまった。私のどうしようもない無力感を救ってくれたのは、おばちゃんの朗らかさだった。

こんな風に書いてしまうと、いかにも薄っぺらい東北復興支援!絆!な感じがするかもしれないけれど、これが実際に私があの時に感じたことなのだ。

私は世界中どこへいっても、おばちゃんに助けてもらっている。イタリアで道に迷っても、キューバでカタコトのスペイン語で困っても、バルバドスで宿がみつからなくても、おばちゃんは優しい。

仏陀が修行中に行き倒れて死にかかった時に、仕事中なのに乳粥をわけてくれたスジャータのように。スジャータはおばちゃんではなかったかもしれないけど。

世界のおばちゃんとスジャータとの共通点、それは母性だ。

そんなことを考えながらホテルにチェックインすると、宿泊客の半分強は復興工事労働者、残りは家族旅行。フロントの女性たちは語気が荒い工事関係者の対応に忙しそう。私も色々な場所・タイプのホテルに泊まったけど、ここはなんとも独特な雰囲気だ。

私はさっさとお風呂にはいってベッドにもぐりこんだ。

(ケイコ・K・オオイシ)