2007年10月13日、ボリビア・ラパスの日記

旅の日記、今回アップするのは2007年10月13日に書いたボリビア編です。思い返してみると、首都ラ・パスは何とも特徴的で魅力的な町だったな。
なお、この旅ではラ・パスの「一番ホテル」に大変お世話になりました。オーナーの南雲さんには何から何まで助けていただき、今も本当に感謝しております。あれから7年、南雲さんはお元気でしょうか?

どうもこんにちは。
現在、僕らはブラジルのサンパウロにいます。数日前まではブラジル内陸部パンタナールのジャングルでピラニアを釣ったり野生動物を見ながらまったりしていましたが、サンパウロはさすがの大都会。久々の都会生活にいまだ馴染めずにおります。

……さて、ボリビア。
日本人旅行者としては珍しいほうだと思いますが、有名なウユニ塩湖にも近郊のコロイコにも行かず、ほとんどの時間を首都ラ・パスで過ごしました。その理由としては、まずラ・パスの居心地がとても良かったこと。もうひとつは、その標高の高さになかなか身体がついていかなかったことがあります。

ラ・パスという町には不思議な魅力があるんですよ。
インディヘナ率が高いこの町には、山高帽を被ったいかにもインディヘナ!という感じのオバちゃんがたくさんいます。ガヤガヤとした騒々しさもたっぷり。人々の間にも活気があって、どこかインドにも似た雰囲気があるんですね。
じゃあツーリスティックかというと、決してそれだけでもない。もちろん、観光の中心となるサガルナガ通りには欧米の観光客もたくさんいるんですが、少し離れると庶民の生活を垣間見ることができて、それがなによりも楽しい。庶民の街であるエル・アルトの日曜市にも行ってみましたが、こちらも活気があって実に楽しかったな。「地球の歩き方」にはエル・アルトについて「貧民街」と書いてあったけど、どちらかというと「庶民の町」という感じ。まあ、決して治安がいい場所とは言えないでしょうが……。

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ただ、3,650メートルという標高の高さ、これが予想以上にキツイんすよ。エル・アルトなんて4,000メートル越えですからね。多少ペルーのクスコで高地には身体が慣れたかと思ってたんですが、なかなかキツかった。
まず身体が異様にダルイ。少し動いただけでも息が切れるから、動くこと自体がめんどくさくなる。 そんなときに限ってボリビア以降の旅程をまったく決めていなかったものだから、やらなきゃいけないことがあるのに時間だけが過ぎていく。そして、どんどんネガティヴになっていく——。一時は「ひょっとしたら僕らはこの町から抜け出せないんじゃないか?」とすら思いましたからね。
話はズレますが、クンビアという音楽がありますね。コロンビアを原産とし、中南米一帯では非常にポピュラーな音楽のため、ラ・パスでもあちこちでクンビアが鳴ってます。で、高山病でキツイとき、このクンビアのポンスコポンスコという単調なビートが神経に触るんですよ。高山病にかかったことによりクンビアの呪術性のようなものに少しだけ触れることができたのだとすれば、高山病で苦しんだのも決して無駄じゃなかったのかもしれませんが……。

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ラ・パスの音楽事情の話も少々しておきます。
テアトロ・ムニシパル(Teatro Municipal)という歴史ある劇場が街の中心部にありまして、僕らは連日この劇場に通っていました。なぜかフリー・ジャズの大御所であるハン・ベニンクや(ボリビアはかなりジャズが盛んな土地。ハン・ベニンクの前座を務めた地元のトリオもなかなか達者でした)ボリビアン・フォルクローレの面々が出るプログラムも良かったのですが、なによりも会場が素敵。インドはチェンナイのミュージック・アカデミーを思い起こさせる、とても雰囲気のある劇場なんです。しかも入場料が15~30ボリビアーノ(200~450円)。日本でもこんな劇場でライヴを観れたらいいのに!
ラ・パスにはペーニャというフォルクローレ専門のレストランも数多くあるのですが、こちらで演奏されているのは観光客向けのフォルクローレ。あえて言ってしまうならば、「コンドルは飛んでいく」系の「いかにもアンデスのフォルクローレ」といった感じです。
一方、テアトロ・ムニシパルで演奏されているのは、より洗練された現在進行系のボリビアン・フォルクローレ。なかでも2日に渡って単独公演を行ったピライ・バカのライヴは涙ものの素晴らしさでした。ボリビアに来る機会があれば、テアトロ・ムニシパルにはぜひ行ってみてください。良質のボリビアン・ミュージックと出会えますから。

ラ・パスのあとは、ブラジルにも近いサンタ・クルスという街を訪れました。こちらは標高が低いぶん、一気に熱帯らしい暑さに包み込まれていました。タイ南部にも似た、不思議な魅力に溢れた街だったな。少し治安の悪さも感じたけれども。なお、フォルクローレ的にはこのサンタ・クルスも重要地で、ラ・パスのものとは違う、南国らしい陽気さに満ちたフォルクローレの音源を何枚か手に入れることができました。

そんなわけで、ここサンパウロでしばしライヴ鑑賞なぞをしたあとは、リオ・デ・ジャネイロ~サルヴァドールへ。その後は一気にキューバへと飛ぶ予定です。では、また。

2007年8月23日、チリ・サンティアゴの日記

昨日、2007年5月に書いたモロッコの日記をアップしましたが、続いて2007年8月23日、南米チリの首都、サンティアゴを訪れた際の雑感をアップ。僕が敬愛するビクトル・ハラのことについてやたら熱く語っております。これまた随分とラフな文章ではありますが……宜しければどうぞ。

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みなさん、お元気ですか。
僕は今、イースター島にいます。スペイン語ではイスラ・デ・パスクア、現地のラパ・ヌイ語ではラパ・ヌイ。 かのモアイ像で有名な島ではありますが、チリの一部でありながら、より西方のポリネシア文化圏に属する島でありまして、タヒチやハワイなどと共通する文化が華開く島であります。 雰囲気的には素朴な南の島という感じ。僕らもまったりとした島ライフを送っています。

今回は昨日まで滞在していたチリの首都、サンティアゴについて書いてみたいと思います。
南米はこの時期、季節的には冬にあたるわけでして、当然のことながら寒い。北欧仕様の完全防寒に身を包んでも、それでもまだまだ寒い!
ただ、街としてはなかなかおもしろいところです。まず、食事がとても美味しい。魚貝類をシンプルな味付けで調理した料理が揃っていること、そしてアルゼンチンから良質の牛肉が入ってくること、新鮮な野菜が取れることから、なにを食べても美味しいんです。
それと、人が全体的に優しげ。チリは他の南米諸国と比べるとインディオ/メスティーソが少なく、全体的にスペイン系が多いのですが、熱いスペイン人ともまた違いますね。日本人とはわりとウマが合うかもしれない。

ところで、このサンティアゴという街は今回の旅でどうしても立ち寄りたい場所のひとつでした。その理由はひとつ。ビクトル・ハラという歌手が拠点にし、無惨に殺された街だから。

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この国はたった20年ほど前まで軍事政権下にありました。
70年代初頭は社会主義政党が政権を取ったものの、73年9月11日、アメリカに支援されたアウグスト・ピノチェト将軍らによる軍事クーデターによってひっくり返され、当時多くの歌手、作家、劇作家などの表現者が軍部によって虐殺されました。そのとき左翼系市民の先頭に立って歌を歌い、軍によって捉えられた挙げ句、「二度とギターを弾けないように」と両手を銃で打ち抜かれたうえに殺されたのがビクトル・ハラでした。
彼はチリの各地で歌い継がれていたフォルクローレに新たな息吹きを吹き込み、チリにおけるヌエバ・カンシオン(新しい歌)運動の先頭に立った人物。ロバート・ワイアットやフェルミン・ムグルサ、SOUL FLOWER UNIONらが彼の曲をカヴァーしているほか、そのフェルミンのカヴァーも収録した『Tribute To Rock』というトリビュート・アルバムも出ています。ちなみに、同作を発表したのはバルセロナのレーベル。ビクトル・ハラの存在はレディオ・チャンゴ系のヨーロッパ・アンダーグラウンドにおいても重要視されているわけですね。

僕がそんなハラのことを知ったのは、彼の代表曲“平和に生きる権利(El Derecho De Vivir En Paz)”のSOUL FLOWER UNIONヴァージョンを聴いてから。その曲が入ったSOUL FLOWER UNIONの『エレクトロ・アジール・バップ』(1996年)というアルバムは出た直後に買った記憶があるので、ハラの存在を知ったのは僕が21歳のころということになります。当時の僕は南米のフォルクローレについて一切知識を持っていませんでしたが、SOUL FLOWER UNIONを通じて知ったハラのオリジナル・ヴァージョンは、フォルクローレをまったく知らぬ僕でも心打たれるものがあったのです。

現在のサンティアゴはとても穏やかです。かつてハラを銃殺した軍部の兵士たちはにこやかに街中を歩き、観光客の質問にも愛想よく答えています。
ただ、ハラと彼の歌がいまだに市民たちの間で愛され続けていることはよく分かりました。どのレコードショップに行ってもハラの作品は目立つところに置いてありますし、彼のポスターもいたるところで目にするのです。ちなみにポスターの並びはチェ・ゲバラ、ボブ・マーリー、ビクトル・ハラ。その並びからサンティアゴにおけるハラの捉えられ方が浮かび上がってくる気がします。
抑圧されたインディオの歌であったフォルクローレを受け継ぎ、抑圧された市民に向けて歌い続けたハラ。彼が歌い紡いだのは、永遠に古くならない民衆の歌です。だからこそ彼の歌はフェルミン・ムグルサなど現在進行形のレベル・ロッカーたちからも愛され続けるのでしょう——。サンティアゴの街で僕はそんなことを考えていたのでした。

さて、ここイースター島でも結局音楽ネタ探しに忙しくなってます。
昨日は地元でしか売ってないであろうCDR作品を入手しました。これまた聴いたこともないユニークな作品だったのですが……そちらについては追って。ではでは。

2007年6月25日、モロッコ・エッサウィラの日記

2007年5月からの約1年間、僕とケイコ・K・オオイシは世界を回る長い旅に出ていました。あれから7年も経ったなんてちょっと信じられませんが、自分たちにとってもあの1年間に体験したもの・培った感覚が今の活動のベースになっていることをたびたび実感します。

その旅の記録はmixiにアップしていたのですが、当時は「友人まで公開」にしていたこともあり、こちらのブログでも少しずつご紹介していくことにしました。
今回アップするのは、2007年6月25日、北アフリカはモロッコの風光明媚な町、エッサウィラのホテルで書いたもの。西アフリカ諸国からモロッコへ奴隷として連れてこられた黒人たちが生み出した土着的な呪術音楽、グナワの巨大フェスティヴァルで体験した興奮を綴ったものです。興奮のあまりちょっとラフな文体ではありますが、グナワ・フェスティヴァルの真っただ中ならではの感覚が生々しく言語化されている箇所もあると思うので、そのままアップすることにしました(なお、貼付けてある映像は僕が体験した2007年のものですが、僕が撮影したものではありません)

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今、グナワ・フェスティヴァルの会場からホテルに帰り、これを書いているところです。ただいまの時刻は深夜2時半。明日の朝にはホテルをチェックアウトしてマラケシュに向かわねばならないのですが、今の気持ちを書きとめるべくPCに向かっています。

グナワという音楽の詳細については、僕などが書くよりも今回あちこちでご一緒させていただいたサラーム海上さんが各所で書かれているので、そちらをご参照ください。簡単に説明すれば、カルカベという金属カスタネットのミニマルなビートとゲンブリという弦楽器の地を這うようなベースラインが特徴。土着的なトランス音楽、そう呼ぶこともできます。

グナワ・フェスティヴァルは、モロッコ各地のみならず世界中から多くの聴衆が訪れる一大グナワ祭りであります。 日本にいる頃からグナワの概要についてはざっくり理解したつもりでいたのですが、今回でその印象は大きく変わりました。
まず、客層。オシャレな格好をした若者なんかがグナワを合唱して大騒ぎしてるし、老人やフツーのオッサンオバサン、ちびっ子なんかも混じって大フィーバー!その客層の広さにまず驚かされました。
それと、今回はフェスが始まる2日前から会場となるエッサウィラに入っていたのですが、時間を追うごとに町中に人が増えていくんですね。で、それに従ってどんどん街の雰囲気が荒れていくんです。 これまでに3回フェスに参加していたサラームさんによると以前のピースな雰囲気がなくなってきてしまっているようですが、日を追うごとにワケのわからん連中も増えていったのは確か。で、グナワのビートがそうした雰囲気の着火装置になってしまうこともあるようです。

それを強く感じたのが、メインステージのトリを飾ったエイジアン・ダブ・ファウンデーションのとき。もちろん、ADFはグナワじゃないです。ベースになっているのはジャングル/ドラムンべースとバングラ・ビート。そのため、ADFのライヴも途中までは割とフジロック的な……というか通常のロック・フェスっぽい雰囲気でした。 それが、終盤でグナワの楽団がステージに上がってコラボレーションをはじめた瞬間に雰囲気が一転。完全に目がイッちゃった連中(もちろんすべてモロッコ人男性)がドワーッと前方に押し寄せ、あちこちで喧嘩も始まる始末。それまでのピースなムードがヤバイ感じに一変してしまったのです。

この変化は、僕にとっては衝撃的でした。なんというか、そこには狂気があったのです。
それまでの数日間はグナワの黒くて突破力のあるビートに気持ちよく身を委ねていたのですが、グナワは僕のような日本からの観光客に向けられているのではなく、100%モロッコの大衆、それも日々生きるなかでさまざまな苦しみやら哀しみを抱えた連中に向けられているんだな、そう最後に実感してしまったのでした。
さきほどグナワのことを「土着的なトランス音楽」と書きましたが、そこには享楽的なトランスではなく、トランスに入って消し去らないといけない「何か」があって、それは僕にとっては知ることもできない、知りたくもない「何か」なのかも……そんなことも考えました。グナワに込められているメッセージは(それが何なのかはわかりませんが)、僕には一生かかっても噛み砕けないぐらい重くて、深いのでしょう。もっといろんなものが詰まった、モロカンにとっての自動着火装置というか……。

とにかく、ADFのライヴの際の、一気に会場の雰囲気がドロッとしたものに包み込まれた瞬間は、今思い出してもゾクッとするほどのものでした。 もちろん、フェスを通して最高に楽しい瞬間をたくさん過ごすことができましたし(ご一緒させていただいた皆さん、本当にありがとうございました!)、ピースな体験もたくさんできたのですが、最後の最後でグナワの、そしてモロッコの底知れぬ深さに一歩足を踏み入れてしまったような気がしてならないのです。

明日一端マラケシュに戻り、今度はワルザザートという内陸の街に移動します。
そこでも凄まじくディープな体験が待っているのですが、詳細は追って。
いやーモロッコ、トンでもない国です。

「橋の下世界音楽祭 SOUL BEAT ASIA 2014」、終了!

先週金曜から日曜にかけ、愛知県豊田市で行われた「橋の下世界音楽祭 SOUL BEAT ASIA 2014」、あまりにも込み上げてくる感情が多くて未だにあの震えるような感動を言葉にできないのですが、とりあえずケイコ・K・オオイシの写真をどうぞ。
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橋の下で感じたことは、いま準備している次の次の本で形にしたいと思っています。また、『雲南COLORFREE』や『チベットチベット』の監督で知られるキム・スンヨンさんに会場でインタヴューしていただいたので、そちらも何らかの形で世に出るかもしれません。
今年会えた人も、今年残念ながら来れなかった人も、また来年あの橋の下で会いましょう。それまで僕も、自分なりの「橋の下世界音楽祭」を続けたいと思います。

祝島を思い出させる懐かしい味

20120619p2o今年も購入できないかとなかば諦めかけていた激レアな逸品、祝島のひじきを無事購入。数年前祝島に行ったときにお土産として買い、シャキシャキの歯ごたえと風味の良さに惚れ込んでしまったものの、去年は出遅れて無念のソールドアウト。生産量と収穫期間が限られているため、島外にはそれほど多くは出回らないんですね。
でも、今年はあの味と再会できる!勢いあまって、ひとりあたりの上限MAXの5袋も買ってしまいました。

hijiki c41こちらは祝島におけるひじきの生産風景。おばあちゃんがひとつひとつの行程を手作業で行います。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~jf-iwai/hijiki.htm

風待ちの港で育まれてきた唄、「牛深ハイヤ節」を求めて──熊本県天草市牛深

この週末は熊本最南端、牛深に行ってきました。目的は日本民謡の源流のひとつ、「牛深ハイヤ節」が生まれた土地の匂いを嗅ぐため。
Sunset写真牛深は天草市中心部から車で1時間ほどのところにあり、海を挟んですぐに鹿児島。そうした土地柄から古くから鹿児島や長崎の漁師や船乗りがやってきては、次の航海に向けた風待ちをする場所でもありました。そのため、牛深には各地の文化が持ち込まれ、そのうちのひとつであった奄美の「六調」は「牛深ハイヤ節」のルーツのひとつにもなったと言われています。そういえば、明治以前の徳島阿波おどりは「ハイヤ節」で踊られていたというハナシもありますね。奄美〜牛深〜徳島。そう簡単に1本の線を引けるわけではありませんが、確かにその3つの土地の唄には共通する匂いを感じ取ることができるかも。

また、牛深には遊郭があったほか、かつては新銀取りという女性も多かったと言います。「新銀取り」とは大阪などで稼いできた船乗りたちを「現地妻」として迎えた牛深の女性たちのこと。船乗りと港の女たちの間に生まれた愛は確かにひとときのものだったかもしれませんが、彼らの間で歌われていた唄は「牛深ハイヤ節」として現在まで歌い継がれることになりました。
写真そのように、さまざまな物語が横たわる牛深。今回は一泊二日の短い旅ではありましたが、現地の方に大変興味深いお話をたくさん聞くことができました。嬉しかったのは、ただ「かつての牛深」の話を懐かしむだけではなく、今を生きる「牛深ハイヤ節」の姿に触れられたこと。すでになくなってしまった唄や習慣、物語を振り返るのも重要でしょうが、僕は現在進行形のメロディーとリズムに触れたい。それは世界中どこに行っても変わりません。牛深の港に吹く南風(はえ)を感じながら、僕はその思いを新たにしました。

なお、天草市中心部にもまた、キリシタンや「からゆきさん」らの悲しい歴史がたくさん残されています。この地域というと天草・島原の乱を思い浮かべる方が多いと思いますが、そうした悲しい歴史だけではなく、外国人を含むさまざまな人種が入り交じりながら独自の文化を育んできた人々の喜びや逞しさをもっと知りたい。そして、そういう生命の輝きみたいなものが刻み込まれた唄をもっともっと聴きたい。そう再認識させられる旅となりました。

ちなみに、熊本の後は福岡へ移動し、友人のコウタロウくんとトモコちゃんの結婚パーティにシークレット出演。ROJO REGALOのPICOさんとキョンキョン、奇妙礼太郎さんとトラベルスイング楽団からのお祝いコメントも流すことができました。コメント録りに協力してくださった皆さんに感謝。そして、コウタロウくんとトモコちゃん、本当におめでとう!

江戸の華やかさを味わえる浅草・三社祭

写真こんにちは、大石始です。2013年5月18日、浅草・三社祭へ行ってきました。
僕らが行ったのは2日目の氏子各町神輿連合渡御。ものすごい人垣ができている浅草寺前ではなく、慎ましい雰囲気の浅草神社の前に陣取って撮影をしてきました。
ここ数週間のうちに行った府中の「くらやみ祭り」や青梅の「青梅大祭」に比べると、江戸らしい華やかさが神輿や囃子から感じられるのが三社祭の魅力。洗練されていてオシャレ、それでいて浅草らしいルードボーイズムが祭りのなかにしっかり息づいていて、大都市・東京を象徴するお祭りらしい風格がありました。
三社祭は1312年に始められた浅草の船祭をルーツに持つとされ、江戸時代には浅草神社と浅草寺が一体になった「観音祭」または「浅草祭」として賑わったとされています。浅草神社は628年創建とされることから、かなり長い歴史を持つ神社。ただし、その浅草神社の大祭である三社祭そのものは大都市・江戸の発展と共に確立されてきた祭りであり、現在も受け継がれる神輿や囃子、びんざさら舞の伝統からは、江戸文化のモダンな魅力がしっかり伝わってきます。日本の古層まで突き抜けてしまうような土着的な芸能や祭りも最高ですが、ニューウェイヴ感のある三社祭もやっぱりステキですね。

ひとり三都物語ー大阪・出雲編

eltopo0511_omoteケイコです!ひとり三都物語、続きましては大阪。

大阪での目的は、ハジメさんがDJで「EL TOPO」というベリーナイスなワールドミュージックのイベントに出演ということで、私も遊びにいってきました。PICO NAKAJIMA & Kyon2 (ROJO REGALO)のライヴも温かい愛にあふれ、DJ陣のナイスなプレイもそれぞれとってもディープ!素晴らしく最高に楽しかった!

翌朝というかパーティー終了数時間後大阪を出発し、高速バスで出雲へと向かいます。

出雲大社は、大国主大神さまをご祭神としてお祀りする社です。伊勢だけでなく、出雲大社も遷宮の時を迎えています。遷宮というのは、簡単に言うとお引っ越し、ということですね。
「平成の大遷宮」は平成20年4月から平成28年3月までの8年間に渡る御修造です。そして先日の平成25年5月10日、大国主大神が御仮殿より御本殿へとお還りいただく祭事、「本殿遷座祭」が無事に執り行われたようです。大変壮大な神様のお引っ越しですね!

そんな出雲大社に到着!こちらが本殿遷座祭を無事に終えられた御本殿。
うわ〜かっこいい!悠然として威風堂々、それでいて爽やか。
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この注連縄の極太な存在感に生命力を感じてしまいますね、シビレます!

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奉祝行事として出雲神楽が上演されていました。こちらは松江市の「佐陀神能」。
奉祝行事は6月9日まで連続上演されるそうです。
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こちらは「ムスビのご神像」。日本神話を象徴する神像です。
「大国主大神が国造りに悩まれたとき、海の向こうから光り輝く神が現れた様子です。その神は、大国主大神自身の魂であるといわれ、大和の三輪山に祀れと告げられました。その後、大国主大神がお告げに従って大和の三輪山にご自身の和魂を鎮められたのが奈良県の大神神社の始まりです。大和朝廷の時代から三輪山は聖山として崇められていました。」
ーーこちらもスケールの大きなお話ですね。
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他にもまだまだ見所はたっくさんあるのですが、今回はタイム・アップ!残念ですが、次回リベンジしたいと思います!

駆け足の三都物語の最後は、美しい稲作の浜で夕日を拝んで。ちょっと時間が早かったけど、帰りのバスの時間があるのでもうきりあげなければ〜
名残惜しくも、出雲市駅へ向かうバスに乗り込んだのでした。
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駆け足なひとり三都物語、これにて無事おしまい!ぎゅぎゅっと充実した旅でした!

ひとり三都物語ー伊勢編

ケイコです!先週末に「ひとり三都物語」ということで伊勢・大阪・出雲へと正味2日間、移動は電車と高速バスという強行スケジュールで旅してきました。 伊勢はあいにくの天気であまり写真が撮れずに残念でした。けれども雨のおかげで境内の木々の緑がよりみずみずしく見え、雨模様の伊勢もなかなかオツなものでした~。 伊勢神宮といえば内宮と外宮が代表的ですが、実は125社もある神社の総称なのだそうです。 こちらはそのうちのひとつ、伊雑宮(読み:イザワノミヤ 一般には イゾウグウ)。 内宮の別宮で古くから「天照大神の遙宮」とよばれているそう。 izouguu3 伊雑宮の周囲はぐるりと田んぼに囲まれていて、なんとものどかな田園風景が広がっています。 tannbo 鳥羽を経由して、外宮へ。

gekuu2まだ午前中だというのに、たくさんの参拝客でにぎわっていました。

こちらは、次の遷宮予定地。みどりがみずみずしかったです。   gekuu バスで内宮へ移動。この時点で雨は激しく参拝客で大混雑。

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池の水面もさざ波立ってます。

なんとか無事に参拝を終え、大阪へ。

B.O.Nウェブ、リスタート!

どうもこんにちは、大石始です。
昨年のウェブ開設以来、開店休業状態が続いていましたが、今日からブログを中心に情報をアップしていくことにしました。皆様、宜しくお願いいたします!

先週末は2年ぶりに大阪へ。かつて新潟でもお世話になったTZくんに呼んでいただき、「EL TOPO」というナイスなワールドミュージック・イヴェントでDJをやらせていただきました。TZくん、大阪のみなさん、どうもありがとうございました。最高に楽しかった!

その翌日は念願叶い、河内音頭の故郷である八尾へ。
運良く天龍小若丸さんの音頭25周年記念音頭大会に足を運べたほか、毎年8月に地蔵盆が行われる常光寺や、河内家菊水丸さんの秘蔵コレクションが並ぶ河内音頭記念館などを回ってきました。八尾の空気をたっぷり吸い込みながら、河内音頭の独特の世界観がどのように育まれてきたのか、ひとり思いを馳せていたのでした。
やっぱり次は地蔵盆を体験してみたい!大阪、また行きます!

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こちらは河内音頭記念館で撮影した一枚。菊水丸さんの秘蔵ヴァイナルがズラリ。しかも全部サイン入り!


こちらは河内家菊水丸さんの「ボブマーレー物語」。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ“Is This Love”のイントロから始まる鳥肌モノの1曲。