三陸のお盆 その2 菅窪鹿踊


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2017年8月14日朝5時。宮古は濃霧で視界が悪く、車の運転も慎重になる。今回の旅の目的は、菅窪鹿踊(すげのくぼししおどり)を墓地で撮ること。事前に保存会顧問の畠山さんから「雨天中止、しかもここ10日間大雨が降り続いていて当日も予報によるとおそらく雨」と事前に聞いていた。私は行くかどうか散々迷った挙句、もうここまで来たらたとえ雨で中止でも行った方が後悔しないと決めて、「明日雨でも行きます。では朝8時に墓地に伺います」と電話を切った。

菅窪は、宮古から車で1時間。太平洋沿に北上する。近隣の名勝地は「鵜の巣断崖」。海抜は約200m。

先の投稿(三陸のお盆 その1)でも触れたけれど、復興道路というだけにとにかくあちこちで工事をしていた。実際にグーグルマップのナビで走行中に、ナビが急にエラー状態になり、現在地を示す矢印がグルグルと回転し出した(パソコンがフリーズして再起動するしかない状態みたいに)のには、心底動揺した。こんなの初めてだ。元あった道が途中でぷっつりと切れていたのだ。私は途中で閉ざされた道の写真を撮り、その近くにある新しい道を走った。

地図で見て海沿いを走るものだと思っていたけれど、菅窪へ行く道中はうねうねと曲がりくねった山道が続く。窓を開けると高原のようなキリリと冷たくて気持ち良い空気が入ってくる。田野畑村に入る「思惟大橋」までやって来た。またこの橋が大きく、下を見ると随分標高の高いところに来たなとわかる。高所恐怖症の方なら足がすくむ高さだと思う。

保存会の畠山さんに菅窪の墓地への大体の道順は電話で教わっていたが「場所がわからなかったら、思惟大橋近くの道の駅で誰かに聞けばいいと思う」とのことだったので、早速開店準備中のおばちゃんに聞いてみる。
「すみません、菅窪の鹿踊をやってるって聞いて、お墓の場所を知りたいのですけど」
「ごめんなさいねぇ、私ここの集落のもんじゃないのでわからないのよ」
「あ…そうですか(落胆)。ありがとうございます(うわーここでわからないとなると苦戦しそうだ…約束の時間まで30分だけど辿りつけるかな…)」
私の凹みっぷりに気を使ってくださったのか、他のスタッフの方にも聞いて見てくださって、声をかけてくれた。
「あのね、菅窪の集落だったらこの1キロ先に行ったとこにあるけど、お墓はわからないなぁ」
「あ、そうですか…いってみます、ありがとうございます!」

電話で聞いた道順通りに車を走らせてみるけれど、どうも墓場らしいところが見つからない。アポの時間が近づいているのでご自宅に電話してみるが、不在。携帯の電話番号を聞いておかなかったことを悔やんでも仕方ないのでガソリンスタンドのお兄さんに聞いてみるけれど「ここの集落のものじゃないんでわからないです」とのこと。

私たちのような遠くから来るものは近所の人なら当然知っているだろうと勝手に思い込むけれど、祭りや行事というのは当事者かその近い人しか知らないことが結構ある。東京に住んでいたって隣町のお祭りの場所を正確に把握している人の方が少ないのと同じことだ。

8時を少し過ぎたあたりで電話に奥様が出てくださって、畠山さんは墓地にいるとのこと(そうですよね)。道に迷っていることを話すと「じゃあ、ついて来てください」とわかりやすい大通りから車で案内してくださった。

墓地は生い茂った森の中にあった。何度も近くを通っていたのに奥に墓地があるとは気がつかなかった。
畠山さんと合流し、道に迷って時間に遅れたことをお詫びし、やはり今日は雨のため墓踊りは中止だけれど鹿頭の撮影は構わないとのことで、鹿踊保存会の建物へ移動する。

村の集会場のような建物。近辺は牧場でふと振り向くと牛と目が合う。建物の奥の方に鹿頭は仕舞われていた。
角が大きく存在感があって、黒い肌に金色で塗られた瞳は凛々しいけれども同時に恐さも感じさせられる。

鹿踊は東北地方で広まり、2017年現在では雄々しいクリーチャーのような非リアル系の造形の鹿頭の鹿踊の方が有名だと思う。
こちら菅窪鹿踊は本物の鹿に近い造形のリアル系。この系統の鹿頭は菅窪と宇和島にしかない。

菅窪鹿踊の起原伝承はこうだ。

「鹿島神宮の御祭神である武甕槌ノ尊(たけみかづちのみこと)が戦いの際に火に囲まれ、身の危険がせまった時にどこからか無数の鹿が現れ、湖に飛び込んでは身を濡らし、駆け上がっては火の中を駆け巡ることを繰り返した。これによって猛火は消え武甕槌ノ尊の安全は守られたが、火が消えるとともに鹿も姿を消した。武甕槌ノ尊は感激し、その報謝の為に「鹿踊」を創始した。」

「菅窪へ鹿踊が入ってきたのは、武蔵国秩父の畠山氏一族が、源頼朝幕府の命によって蝦夷に備える為に入ってきた。関東往復の際「鹿島鹿踊」を知って、請来したのが始まりとされている。その後江戸中期、念仏踊を取り入れ神前演能だけでなく仏前演能も行うようになった。」

私は事前に調べていた時に見た「浄財」と書いてある賽銭箱の上に鹿頭が鎮座している写真が気になっていて、畠山さんに聞いてみた。
「鹿頭が賽銭箱の上に乗っているのは、どういう意味があるんですか?」
「鹿は神の使いだからです。」

私はこの後東京に帰ってから春日大社の宮司さんであった葉室頼昭さんの本を読んでいたのだが、そこにこう書いてあった。

「どうして鹿島の神様がシカに乗ってこられたかというと、シカというのは不思議な、未来を見る能力を持った動物であると言われています。『古事記』にも書いてありますが、吉凶を占う占いにはよくシカが関係しています。いちばん有名な占いというのは、シカの肩甲骨を焼いて占うというのがありますね。だから、そうした不思議な予知能力のあるシカを神獣として崇めていた。」ーー「神道 見えないものの力」葉室頼昭 より

シカの骨の占いーー歴史の教科書で出て来た加持祈祷のこと。今でも御嶽山では加持祈祷の儀式が行われている。

そうか、あの加持祈祷のシカなのか、だからシカを崇めての鹿踊なのか… !
アニミズム的な、まるでアフリカのドゴン族が砂漠にワニを連れて行くとそこから泉が湧く…みたいな自然崇拝。なんだかすごくゾクゾクする。

結局雨で中止になってしまい墓踊りは撮れなかった。
今年の春夏はプライベートなことでも思うようにいかないことが多く気分が沈みがちで体調もあまり良くなく、撮影に行く気力も今ひとつという状態が続いていた。

でも思い切って三陸に来てみたら、なんともファンタジックなところで驚いた。極楽浄土のようだから、浄土ヶ浜。(実際は霧しか見えなかったけど)なんとも幻想的なネーミングの浜を通過してたどり着いたのは、霞みがかった牧場。まるでジブリのアニメの世界のようでもある。こんな深い緑に囲まれて安らかに眠りについているご先祖様方の慰霊のために墓場で勇壮に踊る鹿踊…が撮れたらよかったんだけど、まあ、お天気ばかりは仕方がない。けれど本当はせっかく時間と労力をかけたのだから、いい写真撮りたかったなぁ、という残念な思いは拭えず。なんでも損得で計算してしまう自分の悲しい性、これこそどうかしている。

それよりも、鹿踊について気になっていたこと。

いろいろな動物がいるけど、鹿踊りってなんでシカなんだろう?という素朴な疑問。私なりに答えてみると、

シカは神の使い。日本神話に登場する武甕槌ノ尊が戦火に囲まれた時に鹿がどこからともなく現れ助けてくれ、その報謝として鹿踊りを創始したと伝えられている。また加持祈祷で使われるほどシカは特殊な予知能力を秘めた生物だ。だから人は鹿の能力を神獣として崇め、鹿踊を舞い神に奉納し、いつしかそれは念仏踊りのエッセンスも加わり祖霊崇拝の意味合いも兼ねながら、現在まで連綿と続いているのではないか。

もちろん菅窪鹿踊の起源は先に書いたものが正式だ。各地の鹿踊りの起源は諸説あり、地域や流派によってもさまざまだ。殺された鹿の供養説や、山で遊ぶ鹿の野性を真似た遊戯模倣説などもある。獅子踊りと表記するところもある。始めた先人たちとその祭りに関わった人たちがああだこうだと工夫して永い時間をかけて現在まで続いている、その結果としての彩りが美しくて独特だから惹かれてしまう。だから、わからないことも楽しむ姿勢が、今に生きるものとしてはいいのではないか。わからないからこそ生き残ったということもあるかもしれないのだから。

そんなことを考えていてふと気がついた。自分の思い通りにいかないからといって、それが私の人生にとって結果的にムダなこととは限らない。どうなるかはこの先まだわからない。

そもそもの自分の思いの方向性が違っていたことを教えてくれているのかも。その欲しがっているものは自分にとって本当に重要なものではないのかも。捕らぬタヌキの皮算用に必死になってしまっていたけど、他人の持ち物を羨ましいと思わせる世の中の仕掛けにひっかかって惑わされているだけかも。

三陸のお盆はこんな当たり前すぎることを私に教えてくれたのかもしれない。

(ケイコ K. オオイシ)