INTERVIEW

マニラの未来をノックするヘヴィなベースラインーーRED-I、SOUL FLOWER、T-CA$H(BIG ANSWER SOUND)

取材・文/大石始
Interview/Hajime Oishi
撮影/ケイコ・K・オオイシ
Photo/Keiko K. Oishi
協力:T-CA$H(BIG ANSWER SOUND)、PART2STYLE、新宿ガラム

フィリピンに対しては以前から親しみを覚えていた。

この国の国民はタガログ族やビサヤ族といった先住民族に加え、1898年までこの国の宗主国であったスペインからの移民の血も入っている者も多いそうで、OPM(Original Pilipino Music)と呼ばれるフィリピン・ポップスのビデオクリップを観ていると、ペルーやボリビアでこんな顔のメスティーソ(インディヘナとスペイン系の混血)と会ったな、なんてことを考えたりもする。また、フィリピンの先住民族はオーストロネシア語族の部類に入るので、同じルーツを持つ南太平洋の人々とも顔つきが似ている。OPMの多くはアメリカンナイズされたポップスだが、そのなかにふとハワイ風のアイランド・ポップスを見つけて胸を踊らせたこともあった。そうなると、今度はハワイやイースター島で出会った彼や彼女のことが脳裏に浮かんできたりして、いまだ足を踏み入れたことのないフィリピンの人々にグッと親近感を持ったのだった。

また、フィリピンは約40年に渡ってアメリカの植民地だった時代があり、90年代初頭までアジアにおける米軍の軍事拠点ともなっていた。加えて現在も力の入った英語教育が進められているため、成人すると英語圏へ移り住む者も多いそうで、アメリカに住むアジア系住民の中でもフィリピン系は2番目に多いという。そういえば僕が大好きなラテン歌手、ジョー・バターンはフィリピン人の父親とアフロ・アメリカンの母親のもとスパニッシュ・ハーレムで生まれ育ったアフロ・フィリピーノ。1975年にはその名も『Afro-Filipino』というアルバムをサルソウルからリリースしているが、現在でもたびたび父親の祖国に渡ってライヴ・パフォーマンスを披露しているらしい。

そうした断片的な情報に加え、PAPA U-GeeさんやLIKKLE MAIさんを通じて伝えられる近年のマニラ・レゲエ・シーンの盛り上がりや、Youtubeにアップされている大量のフィリピン・ラップの映像がオーヴァーラップし、僕のなかでのフィリピンへの関心は少しずつ高まっていった。

言うまでもなく、現在もこの国は多くの問題を抱えている。マニラ中心部の高層ビルとケソン市の廃棄物処分場パヤタス・ダンプサイトの風景に象徴的に現れている凄まじい経済格差。この原稿を書く数か月前には南部ミンダナオ島の反政府武装勢力、モロ・イスラム解放戦線(MILF)とフィリピン政府の和平合意のニュースが届けられたが、約40年に渡る両者の衝突は実に12万人以上もの死者を生んだとされている。
こうした<貧困や民族紛争のアジア>とは紛れもない現実だ。でも、僕は報道ジャーナリストではないので、その国にどんな音が鳴っていて、どんな人々が生活を送っているのか、そちらのほうが気になって仕方がないのである。今のフィリピンの街中ではどんなメロディーが鳴り響いているのだろう? クンビアを求めてコロンビアまで行ってみたら街中に溢れるサルサとチャンペータのほうに心奪われてしまったように、僕はいつもイメージの向こうに足を踏み入れたいと思っているし、それはフィリピンに対しても変わらない。もちろん現地を訪れないことには何も始まらないわけで、旅立ちに向けて少しずつ準備を始めた頃、マニラで活動する2人のDJが来日するという話を耳にした。マニラでクラブ<B-SIDE>を経営し、自身名義のアルバムも発表しているRED-I。彼の相棒でもあるSOUL FLOWER。マニラ最先端のユース・カルチャーの担い手であり、いま現在起こりつつあるアジアの新しいムーヴメントの中心を担う2人の存在は以前から聞いていたが、まさか東京で会えるとは思ってもいなかった。

そんなわけで、彼ら2人に加え、マニラで活動する日本人DJクルー、BIG ANSWER SOUNDのT-CA$Hにも同席してもらい、マニラのアンダーグラウンド・シーンに関する貴重な話を訊かせてもらうことにした。ナチュラルな英語を話し、UKスタイルのベースミュージックをプレイする彼らと話をしながら、僕はマニラの片隅で生まれつつある新たな胎動に思いを馳せていた。

──2人ともマニラ出身なんですか。

RED-I「そうだよ。僕はマニラのマリキーナ(Marikina)出身で、1981年生まれ」

T-CA$H「マリキーナはマニラの中心地から離れていて、下町という感じの地域ですね」

──SOUL FLOWERは?

SOUL FLOWER「私はマカティ(Makati)っていうビジネスの中心地」

T-CA$H「ファッションや音楽の流行はいつもマカティから発信されるんです。高級デパートも多いですし、日本人はたいてい治安のいいマカティに住むんですよ」

──じゃあ、マリキーナとマカティは全然カラーの違う場所なわけですね。

T-CA$H「そうですね。車で30分ぐらいしか離れてないんですけど、マリキーナはダウンタウン、マカティはアップタウンなので雰囲気もだいぶ違いますし」

──2人が子供の頃に聴いていた音楽は?

RED-I「父がジャズ・ミュージシャンだったからジャズはよく耳にしていた。彼はドラマーをやっていて、マニラ中のライヴハウスやローカル・バーで演奏していたんだ。あとはヒップホップ。コンシャス・ヒップホップだよ」

SOUL FLOWER「ヒップホップ黄金時代の頃のトラックよね」

RED-I「そうそう。ディガブル・プラネッツ、トライブ・コールド・クエスト、ルーツ、あとはDJ KRUSH。僕は高校生の頃からレゲエ/ヒップホップのバンドをやっていて、そこでヴォーカルを担当していたんだ。ピュア・ナチュラルというバンドだったよ」

──REDは81年生まれだから、ピュア・ナチュラルをやっていたのは90年代後半だったわけですよね。その前にマニラでヒップホップをやっていたのはどういったアーティストだったんですか。

RED-I「僕も大好きだったのはフランシス・マガロナ(Francis Magalona/注1)。彼はフィリピンの伝説的なヒップホップ・アーティストだね。レゲエならばトロピカル・ディプレッション(Tropical Depression/注2)」

注 1:フランシス・マガロナ/80年代半ばからブレイク・ダンサーとしての活動をスタート。1990年にフィリピンで最初のラップ・アルバムとも言われる 『Yo!』をリリース。以降、<フランシスM>名義で数多くの作品を発表。タレントとしても勢力的な活動を続けるものの、2009年3月、白血病のため 44歳で死去。

注2:トロピカル・ディプレッション/DJとしても活動するパパドム(Papadom)率いるルーツ系レゲエ・バンド。

T-CA$H「フィリピンは70~80年代にものすごい数のミュージシャンがいて、欧米の音楽自体もかなり入ってきていたんですよ。レゲエやヒップホップもほぼリアルタイムで入ってきたそうで、ヒップホップのグループも昔からたくさんいたんです」

──米軍(注3)の影響もあったのでしょうか。

注3:フィリピン駐留米軍/1991年にアメリカに返還されるまで、フィリピンにはアジア最大の米軍基地とされていたスービック海軍基地があり、先述したようにアジア駐留米軍の重要拠点となっていた。

T-CA$H「それもあったとは思いますけど、フィリピンは今も昔も(全米)トップ40の音楽が人気なんですね。みんなMTVから情報を得ている部分もあると思います。あと、レゲエに関して言えば、レゲエ=ボブ・マーリーなんです。それは東南アジア全般的に同じ感じだと思うんですけど、ボブ・マーリーから受けたインスピレーションを元にスタートしたバンドがフィリピンには多いんですね」

──なるほど。では、マニラのアンダーグラウンド・クラブ・シーンが始まったのはいつごろだと思いますか。

RED-I「90年代初頭じゃないかな。その頃のマリキーナにはたくさんのメタル・バンドがいてね、僕もときどきライヴを観にいてたんだけど、マニラ全体を見ればその頃すでにローカルなヒップホップ・シーンも形成されつつあったと思う。90年代のマニラではめちゃくちゃヒップホップが流行ってたからね。2000年代初頭には僕らもレイヴ・パーティーに遊びに行くようになって、それからエレクトロニック・ミュージックに興味を持つようになった。僕がDJを始めたのがそれからのことなんだ。当時はたくさんのレイヴ・パーティーが行われていて、ひとつのエリアではドラムンベース、ほかのエリアでハウス、もうひとつのエリアでニンジャ・チューンみたいなダウンテンポがかかってるような感じだったんだ。そういうレイヴ・パーティーに行くようになってから僕の人生は 大きく変わった。それまで関わっていたバンド中心のシーンとはまったく違っていたからね」

──90年代に活動していたラッパーはタガログ語でラップしていたんですか。

RED-I「そうだね、ほとんどタガログ語だったと思う。オニックスみたいな音の上でタガログ語でラップするのがローカルのスタイルだった」

──今は英語のほうが多いんですか?

T-CA$H「フィリピンにフリップトップ(FlipTop)っていうシーンがあるんですけど、それはオケなしでやるラップ・バトルなんですね。フリップトッ プはもうインターナショナルなものになっていて、とあるフリップトップの動画はYoutubeの再生回数で世界でトップに入ったという話もあって。それは 全部タガログ語でやってて、熱いシーンが作られているんです」

──それは面白いですね。

T-CA$H「マニラだと町のお祭りでもラップ・バトルが開催されたりするんですよ。特にマリキーナ、トンドのほうはヒップホップの人気がすごくて、ラッパーもたくさんいるんです」

フリップトップに関しては、何よりも下の映像を観てほしい。2012年12月段階(公開から半年)で再生回数はなんと1,200万オーヴァー。不勉強のため現段階ではボンヤリとしたことしか言えないが、ここには何かフィリピン伝統の語り芸や口上のようなものが背景にある気がしてならない。フリースタイルのラップ・バトルというスタイルを取りながらも、単にアメリカの物まねではないフィリピン土着のものが噴出している。オーディエンスの盛り上がりもハンパじゃないし、すぐにでも現地取材にいかないと!という気持ちにさせられる。

もうひとつ、先のRED-Iの発言にあったフランシス・マガロナの楽曲も紹介しておく。この“Kaleidoscope World”は彼が2000年に発表したヒット曲で、現在まで数多くのアーティストにカヴァーされてきた代表曲。ポップ/ロックにクロスオーヴァーしながら独自のミクスチャー・ミュージックを作ってきたフランシスらしい1曲と言えるかもしれない。

──では、SOUL FLOWERにも子供の頃聴いていた音楽を訊いてみましょうか。

SOUL FLOWER「私の父もミュージシャンだったの。だから自宅では本当にたくさんの音楽が鳴ってた。ボブ・マーリーやレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスや60~70年代の音楽ね。あと、私個人はニューソウルが大好きで、エリカ・バドゥやジル・スコットを聴いていた。その後エレクトロニック・ ミュージックにハマっていったの」

──フィリピンの音楽はどうですか。

SOUL FLOWER「そんなに聴いてなかったわ。海外のものばかり聴いてた」

──同世代の友人たちも同じように海外の音楽を聴いてた?

SOUL FLOWER「そうね。私はインターナショナル・スクールに通っていたから」

T-CA$H「彼女のお母さんはハワイの方なんですよ。お父さんはフィリンピンの人で」

──DJをはじめたきっかけは?

SOUL FLOWER「REDとの出会いが大きかったわ。彼にDJのやり方を教えてもらったの。それが2005年ごろ」

──じゃあ、RED-I率いるRED-I SOUNDSYSTEMと<B-SIDE>のことを説明してもらえますか。

RED-I「RED-I SOUNDSYSTEMは2008年ごろ始めたんだけど、僕とSOUL FLOWER、それとDON-Pの3人で構成されている。他のハコでやってるヒップホップのパーティーにも持っていけるように可動式のサウンドシステムを作ったんだ。僕らがやっているような音楽はマニラではまだまだアンダーグラウンドだから、その魅力をいい音で伝えたくてね。若者たちのためにプレイしているようなところがあるんだ」

T-CA$H「DON-PはB-SIDEのマネージメントもやってるんです」

──B-SIDEがオープンしたのはいつなんですか。

RED-I「3年前。DON-Pはそれ以前からバーをやっていて、2008年に一端クローズすることになるんだけど、<彼にもしもう一度店を開くことがあったら教えてくれよ>と伝えてあったんだ。僕のなかにはB-SIDEの構想がすでにあったからね。2009年ごろ、DON-Pが場所を見つけてきてね。サウンドシステムも持ち込めるし、新しいアンダーグラウンド・シーンを始めるにはパーフェクトな場所だった。それで、B-SIDEを始めることにしたんだ」

SOUL FLOWER「場所を見つけてから3か月後にはもうオープンしていたわ(笑)」

RED-I「そうだった(笑)。それぐらいエキサイトしていたんだ」

──B-SIDEのコンセプトは?

SOUL FLOWER「マニラのローカル・アクトやアンダーグラウンドのミュージシャンのプラットフォームを作りたかったの」

RED-I「他の場所でかかっているようなメインストリームのものではなく、本当のアンダーグラウンド・シーンの拠点にしたかったんだ。パンクやスカ、ソウル、ヒップホップ、そしてエレクトロニック・ミュージックを僕らはサポートしていきたいと思っている」

SOUL FLOWER「B-SIDEではいろんなパーティーをやってるんだけど、レゲエはやっぱり支持されているわ。<IRIE SUNDAY>や<BOOM BAP FRIDAY>みたいなパーティーはすごく盛り上がっているし」

RED-I「ソウルのバンドナイトもやってるし、さまざまなジャンルのローカル・アクトをサポートしていければと思ってる」

T-CA$H「B-SIDEってすごく分かりにくい場所にあるんですよ。メインのストリートから離れていて、外からは倉庫にしか見えないんですけど、中にはお 洒落なセレクトショップも入ってて。そういう場所はマニラにそこしかないと思います。日本は昔からコアな音楽が大切にされてきましたけど、海外ではとにかく集客できる音楽ばかりがプッシュされてて、そのためどこのハコでもトップ40ものばかりがかかってる。でも、アンダーグラウンドで頑張ってる人は90年代からいて、彼らはそういう人たちもサポートしてるんです」

──B-SIDEのオープン以降、ダブステップのようなベースミュージックは増えてる?

RED-I「確実に増えてるね。Bサイドをオープンさせる前から<Dubplate>というイベントを日曜の夜8時にやっていたんだけど、その頃はお客さんも少ししかいなかったよ」

SOUL FLOWER「あと、トラックを手に入れてから状況が変わったの」

RED-I「そうだね。DJブースを積んだトラックを手に入れたことで、ダウンタウンのほうでもプレイできるようになったからね。マリキーナにある<Cubao X>というヴェニューで定期的にプレイするようになったのもトラックを手に入れて以降のことだから」

SOUL FLOWER「私たちがマニラで初めてベースミュージックのパーティーを始めたと思う。それまでマニラの人たちはベースミュージックを聴いたことがなかったと思うし、みんな気に入ってくれてるんじゃないかしら」

RED-I「続けていかないといけないだろうしね。次のパーティーではガスランプ・キラーを呼ぶんだけど、そのことによってまた状況が変わるかもしれない」

──B-SIDEの客層はどんな感じなんですか。

T-CA$H「イヴェントによって違うんですが、7割ぐらいがフィリピン人、2割が欧米人、残りの1割がアフリカンとフィリピン人以外のアジア人ですね。マニラってハブ空港なので、いろんな人がやってくるんですよ」

──他のアジアのシーンとの交流についてはどう考えています?

SOUL FLOWER「東南アジアの他の国々のシーンともいい関係を作れてると思う。<BEATS SAIGON>を主宰しているホーチミンのDJジェイス(注4)や、マレーシアやタイのDJたち……。インターナショナルなアーティストを招聘するとき、アジアのなかでツアーできればひとりひとりのオーガナイザーの負担は減るから、アジアの関係者との繋がりはもっと深めたいと思っているの」

注4:DJジェイス/ホーチミン在住のDJ、プロデューサー。アジア・ベースミュージック・シーンのキーパーソンのひとり。欧米の関係者とのパイプも太い。

RED-I「そうすればもっと気軽に他国のアーティストを呼べるようになるからね」

SOUL FLOWER「同じベースミュージックを聴いているんだから、政治的問題を越えて繋がっていくべきだと私は思うわ」

──今後の活動についてはどんなイメージを持っていますか。

RED-I「来年は僕のセカンド・アルバムを出したいと思っているし、ベースミュージックやレゲエのパーティーをもっとやっていきたいとも思ってる。今やっていることは僕らがやりたいことの<始まり>に過ぎないからね」

サウンドシステムを搭載したトラックでアップタウンとダウンタウンを行き来するRED-IとSOUL FLOWER。アジア各国のシーンと連携しながら、マニラの夜をさらに盛り上げようとしている彼らにはもっと聞きたいこともあったのだが、続きは夜のマニラで話すことにしよう。
 AIR ASIA、ジェットスターなどのLCCを使えばマニラまで大してお金もかからないし、軽い気持ちでB-SIDEまで遊びにいくのもアリかもしれない。貧困と民族紛争のイメージばかりに囚われていると、東南アジアで生まれつつある新しい動きを見逃しちゃうかもよ。

B-SIDE:http://www.bsidemanila.com/