昨日、2007年5月に書いたモロッコの日記をアップしましたが、続いて2007年8月23日、南米チリの首都、サンティアゴを訪れた際の雑感をアップ。僕が敬愛するビクトル・ハラのことについてやたら熱く語っております。これまた随分とラフな文章ではありますが……宜しければどうぞ。
みなさん、お元気ですか。
僕は今、イースター島にいます。スペイン語ではイスラ・デ・パスクア、現地のラパ・ヌイ語ではラパ・ヌイ。 かのモアイ像で有名な島ではありますが、チリの一部でありながら、より西方のポリネシア文化圏に属する島でありまして、タヒチやハワイなどと共通する文化が華開く島であります。 雰囲気的には素朴な南の島という感じ。僕らもまったりとした島ライフを送っています。
今回は昨日まで滞在していたチリの首都、サンティアゴについて書いてみたいと思います。
南米はこの時期、季節的には冬にあたるわけでして、当然のことながら寒い。北欧仕様の完全防寒に身を包んでも、それでもまだまだ寒い!
ただ、街としてはなかなかおもしろいところです。まず、食事がとても美味しい。魚貝類をシンプルな味付けで調理した料理が揃っていること、そしてアルゼンチンから良質の牛肉が入ってくること、新鮮な野菜が取れることから、なにを食べても美味しいんです。
それと、人が全体的に優しげ。チリは他の南米諸国と比べるとインディオ/メスティーソが少なく、全体的にスペイン系が多いのですが、熱いスペイン人ともまた違いますね。日本人とはわりとウマが合うかもしれない。
ところで、このサンティアゴという街は今回の旅でどうしても立ち寄りたい場所のひとつでした。その理由はひとつ。ビクトル・ハラという歌手が拠点にし、無惨に殺された街だから。
この国はたった20年ほど前まで軍事政権下にありました。
70年代初頭は社会主義政党が政権を取ったものの、73年9月11日、アメリカに支援されたアウグスト・ピノチェト将軍らによる軍事クーデターによってひっくり返され、当時多くの歌手、作家、劇作家などの表現者が軍部によって虐殺されました。そのとき左翼系市民の先頭に立って歌を歌い、軍によって捉えられた挙げ句、「二度とギターを弾けないように」と両手を銃で打ち抜かれたうえに殺されたのがビクトル・ハラでした。
彼はチリの各地で歌い継がれていたフォルクローレに新たな息吹きを吹き込み、チリにおけるヌエバ・カンシオン(新しい歌)運動の先頭に立った人物。ロバート・ワイアットやフェルミン・ムグルサ、SOUL FLOWER UNIONらが彼の曲をカヴァーしているほか、そのフェルミンのカヴァーも収録した『Tribute To Rock』というトリビュート・アルバムも出ています。ちなみに、同作を発表したのはバルセロナのレーベル。ビクトル・ハラの存在はレディオ・チャンゴ系のヨーロッパ・アンダーグラウンドにおいても重要視されているわけですね。
僕がそんなハラのことを知ったのは、彼の代表曲“平和に生きる権利(El Derecho De Vivir En Paz)”のSOUL FLOWER UNIONヴァージョンを聴いてから。その曲が入ったSOUL FLOWER UNIONの『エレクトロ・アジール・バップ』(1996年)というアルバムは出た直後に買った記憶があるので、ハラの存在を知ったのは僕が21歳のころということになります。当時の僕は南米のフォルクローレについて一切知識を持っていませんでしたが、SOUL FLOWER UNIONを通じて知ったハラのオリジナル・ヴァージョンは、フォルクローレをまったく知らぬ僕でも心打たれるものがあったのです。
現在のサンティアゴはとても穏やかです。かつてハラを銃殺した軍部の兵士たちはにこやかに街中を歩き、観光客の質問にも愛想よく答えています。
ただ、ハラと彼の歌がいまだに市民たちの間で愛され続けていることはよく分かりました。どのレコードショップに行ってもハラの作品は目立つところに置いてありますし、彼のポスターもいたるところで目にするのです。ちなみにポスターの並びはチェ・ゲバラ、ボブ・マーリー、ビクトル・ハラ。その並びからサンティアゴにおけるハラの捉えられ方が浮かび上がってくる気がします。
抑圧されたインディオの歌であったフォルクローレを受け継ぎ、抑圧された市民に向けて歌い続けたハラ。彼が歌い紡いだのは、永遠に古くならない民衆の歌です。だからこそ彼の歌はフェルミン・ムグルサなど現在進行形のレベル・ロッカーたちからも愛され続けるのでしょう——。サンティアゴの街で僕はそんなことを考えていたのでした。
さて、ここイースター島でも結局音楽ネタ探しに忙しくなってます。
昨日は地元でしか売ってないであろうCDR作品を入手しました。これまた聴いたこともないユニークな作品だったのですが……そちらについては追って。ではでは。