INTERVIEW

マニラの未来をノックするヘヴィなベースラインーーRED-I、SOUL FLOWER、T-CA$H(BIG ANSWER SOUND)

取材・文/大石始
Interview/Hajime Oishi
撮影/ケイコ・K・オオイシ
Photo/Keiko K. Oishi
協力:T-CA$H(BIG ANSWER SOUND)、PART2STYLE、新宿ガラム

フィリピンに対しては以前から親しみを覚えていた。

この国の国民はタガログ族やビサヤ族といった先住民族に加え、1898年までこの国の宗主国であったスペインからの移民の血も入っている者も多いそうで、OPM(Original Pilipino Music)と呼ばれるフィリピン・ポップスのビデオクリップを観ていると、ペルーやボリビアでこんな顔のメスティーソ(インディヘナとスペイン系の混血)と会ったな、なんてことを考えたりもする。また、フィリピンの先住民族はオーストロネシア語族の部類に入るので、同じルーツを持つ南太平洋の人々とも顔つきが似ている。OPMの多くはアメリカンナイズされたポップスだが、そのなかにふとハワイ風のアイランド・ポップスを見つけて胸を踊らせたこともあった。そうなると、今度はハワイやイースター島で出会った彼や彼女のことが脳裏に浮かんできたりして、いまだ足を踏み入れたことのないフィリピンの人々にグッと親近感を持ったのだった。

また、フィリピンは約40年に渡ってアメリカの植民地だった時代があり、90年代初頭までアジアにおける米軍の軍事拠点ともなっていた。加えて現在も力の入った英語教育が進められているため、成人すると英語圏へ移り住む者も多いそうで、アメリカに住むアジア系住民の中でもフィリピン系は2番目に多いという。そういえば僕が大好きなラテン歌手、ジョー・バターンはフィリピン人の父親とアフロ・アメリカンの母親のもとスパニッシュ・ハーレムで生まれ育ったアフロ・フィリピーノ。1975年にはその名も『Afro-Filipino』というアルバムをサルソウルからリリースしているが、現在でもたびたび父親の祖国に渡ってライヴ・パフォーマンスを披露しているらしい。

そうした断片的な情報に加え、PAPA U-GeeさんやLIKKLE MAIさんを通じて伝えられる近年のマニラ・レゲエ・シーンの盛り上がりや、Youtubeにアップされている大量のフィリピン・ラップの映像がオーヴァーラップし、僕のなかでのフィリピンへの関心は少しずつ高まっていった。

言うまでもなく、現在もこの国は多くの問題を抱えている。マニラ中心部の高層ビルとケソン市の廃棄物処分場パヤタス・ダンプサイトの風景に象徴的に現れている凄まじい経済格差。この原稿を書く数か月前には南部ミンダナオ島の反政府武装勢力、モロ・イスラム解放戦線(MILF)とフィリピン政府の和平合意のニュースが届けられたが、約40年に渡る両者の衝突は実に12万人以上もの死者を生んだとされている。
こうした<貧困や民族紛争のアジア>とは紛れもない現実だ。でも、僕は報道ジャーナリストではないので、その国にどんな音が鳴っていて、どんな人々が生活を送っているのか、そちらのほうが気になって仕方がないのである。今のフィリピンの街中ではどんなメロディーが鳴り響いているのだろう? クンビアを求めてコロンビアまで行ってみたら街中に溢れるサルサとチャンペータのほうに心奪われてしまったように、僕はいつもイメージの向こうに足を踏み入れたいと思っているし、それはフィリピンに対しても変わらない。もちろん現地を訪れないことには何も始まらないわけで、旅立ちに向けて少しずつ準備を始めた頃、マニラで活動する2人のDJが来日するという話を耳にした。マニラでクラブ<B-SIDE>を経営し、自身名義のアルバムも発表しているRED-I。彼の相棒でもあるSOUL FLOWER。マニラ最先端のユース・カルチャーの担い手であり、いま現在起こりつつあるアジアの新しいムーヴメントの中心を担う2人の存在は以前から聞いていたが、まさか東京で会えるとは思ってもいなかった。

そんなわけで、彼ら2人に加え、マニラで活動する日本人DJクルー、BIG ANSWER SOUNDのT-CA$Hにも同席してもらい、マニラのアンダーグラウンド・シーンに関する貴重な話を訊かせてもらうことにした。ナチュラルな英語を話し、UKスタイルのベースミュージックをプレイする彼らと話をしながら、僕はマニラの片隅で生まれつつある新たな胎動に思いを馳せていた。

──2人ともマニラ出身なんですか。

RED-I「そうだよ。僕はマニラのマリキーナ(Marikina)出身で、1981年生まれ」

T-CA$H「マリキーナはマニラの中心地から離れていて、下町という感じの地域ですね」

──SOUL FLOWERは?

SOUL FLOWER「私はマカティ(Makati)っていうビジネスの中心地」

T-CA$H「ファッションや音楽の流行はいつもマカティから発信されるんです。高級デパートも多いですし、日本人はたいてい治安のいいマカティに住むんですよ」

──じゃあ、マリキーナとマカティは全然カラーの違う場所なわけですね。

T-CA$H「そうですね。車で30分ぐらいしか離れてないんですけど、マリキーナはダウンタウン、マカティはアップタウンなので雰囲気もだいぶ違いますし」

──2人が子供の頃に聴いていた音楽は?

RED-I「父がジャズ・ミュージシャンだったからジャズはよく耳にしていた。彼はドラマーをやっていて、マニラ中のライヴハウスやローカル・バーで演奏していたんだ。あとはヒップホップ。コンシャス・ヒップホップだよ」

SOUL FLOWER「ヒップホップ黄金時代の頃のトラックよね」

RED-I「そうそう。ディガブル・プラネッツ、トライブ・コールド・クエスト、ルーツ、あとはDJ KRUSH。僕は高校生の頃からレゲエ/ヒップホップのバンドをやっていて、そこでヴォーカルを担当していたんだ。ピュア・ナチュラルというバンドだったよ」

──REDは81年生まれだから、ピュア・ナチュラルをやっていたのは90年代後半だったわけですよね。その前にマニラでヒップホップをやっていたのはどういったアーティストだったんですか。

RED-I「僕も大好きだったのはフランシス・マガロナ(Francis Magalona/注1)。彼はフィリピンの伝説的なヒップホップ・アーティストだね。レゲエならばトロピカル・ディプレッション(Tropical Depression/注2)」

注 1:フランシス・マガロナ/80年代半ばからブレイク・ダンサーとしての活動をスタート。1990年にフィリピンで最初のラップ・アルバムとも言われる 『Yo!』をリリース。以降、<フランシスM>名義で数多くの作品を発表。タレントとしても勢力的な活動を続けるものの、2009年3月、白血病のため 44歳で死去。

注2:トロピカル・ディプレッション/DJとしても活動するパパドム(Papadom)率いるルーツ系レゲエ・バンド。

T-CA$H「フィリピンは70~80年代にものすごい数のミュージシャンがいて、欧米の音楽自体もかなり入ってきていたんですよ。レゲエやヒップホップもほぼリアルタイムで入ってきたそうで、ヒップホップのグループも昔からたくさんいたんです」

──米軍(注3)の影響もあったのでしょうか。

注3:フィリピン駐留米軍/1991年にアメリカに返還されるまで、フィリピンにはアジア最大の米軍基地とされていたスービック海軍基地があり、先述したようにアジア駐留米軍の重要拠点となっていた。

T-CA$H「それもあったとは思いますけど、フィリピンは今も昔も(全米)トップ40の音楽が人気なんですね。みんなMTVから情報を得ている部分もあると思います。あと、レゲエに関して言えば、レゲエ=ボブ・マーリーなんです。それは東南アジア全般的に同じ感じだと思うんですけど、ボブ・マーリーから受けたインスピレーションを元にスタートしたバンドがフィリピンには多いんですね」

──なるほど。では、マニラのアンダーグラウンド・クラブ・シーンが始まったのはいつごろだと思いますか。

RED-I「90年代初頭じゃないかな。その頃のマリキーナにはたくさんのメタル・バンドがいてね、僕もときどきライヴを観にいてたんだけど、マニラ全体を見ればその頃すでにローカルなヒップホップ・シーンも形成されつつあったと思う。90年代のマニラではめちゃくちゃヒップホップが流行ってたからね。2000年代初頭には僕らもレイヴ・パーティーに遊びに行くようになって、それからエレクトロニック・ミュージックに興味を持つようになった。僕がDJを始めたのがそれからのことなんだ。当時はたくさんのレイヴ・パーティーが行われていて、ひとつのエリアではドラムンベース、ほかのエリアでハウス、もうひとつのエリアでニンジャ・チューンみたいなダウンテンポがかかってるような感じだったんだ。そういうレイヴ・パーティーに行くようになってから僕の人生は 大きく変わった。それまで関わっていたバンド中心のシーンとはまったく違っていたからね」

──90年代に活動していたラッパーはタガログ語でラップしていたんですか。

RED-I「そうだね、ほとんどタガログ語だったと思う。オニックスみたいな音の上でタガログ語でラップするのがローカルのスタイルだった」

──今は英語のほうが多いんですか?

T-CA$H「フィリピンにフリップトップ(FlipTop)っていうシーンがあるんですけど、それはオケなしでやるラップ・バトルなんですね。フリップトッ プはもうインターナショナルなものになっていて、とあるフリップトップの動画はYoutubeの再生回数で世界でトップに入ったという話もあって。それは 全部タガログ語でやってて、熱いシーンが作られているんです」

──それは面白いですね。

T-CA$H「マニラだと町のお祭りでもラップ・バトルが開催されたりするんですよ。特にマリキーナ、トンドのほうはヒップホップの人気がすごくて、ラッパーもたくさんいるんです」

フリップトップに関しては、何よりも下の映像を観てほしい。2012年12月段階(公開から半年)で再生回数はなんと1,200万オーヴァー。不勉強のため現段階ではボンヤリとしたことしか言えないが、ここには何かフィリピン伝統の語り芸や口上のようなものが背景にある気がしてならない。フリースタイルのラップ・バトルというスタイルを取りながらも、単にアメリカの物まねではないフィリピン土着のものが噴出している。オーディエンスの盛り上がりもハンパじゃないし、すぐにでも現地取材にいかないと!という気持ちにさせられる。

もうひとつ、先のRED-Iの発言にあったフランシス・マガロナの楽曲も紹介しておく。この“Kaleidoscope World”は彼が2000年に発表したヒット曲で、現在まで数多くのアーティストにカヴァーされてきた代表曲。ポップ/ロックにクロスオーヴァーしながら独自のミクスチャー・ミュージックを作ってきたフランシスらしい1曲と言えるかもしれない。

──では、SOUL FLOWERにも子供の頃聴いていた音楽を訊いてみましょうか。

SOUL FLOWER「私の父もミュージシャンだったの。だから自宅では本当にたくさんの音楽が鳴ってた。ボブ・マーリーやレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスや60~70年代の音楽ね。あと、私個人はニューソウルが大好きで、エリカ・バドゥやジル・スコットを聴いていた。その後エレクトロニック・ ミュージックにハマっていったの」

──フィリピンの音楽はどうですか。

SOUL FLOWER「そんなに聴いてなかったわ。海外のものばかり聴いてた」

──同世代の友人たちも同じように海外の音楽を聴いてた?

SOUL FLOWER「そうね。私はインターナショナル・スクールに通っていたから」

T-CA$H「彼女のお母さんはハワイの方なんですよ。お父さんはフィリンピンの人で」

──DJをはじめたきっかけは?

SOUL FLOWER「REDとの出会いが大きかったわ。彼にDJのやり方を教えてもらったの。それが2005年ごろ」

──じゃあ、RED-I率いるRED-I SOUNDSYSTEMと<B-SIDE>のことを説明してもらえますか。

RED-I「RED-I SOUNDSYSTEMは2008年ごろ始めたんだけど、僕とSOUL FLOWER、それとDON-Pの3人で構成されている。他のハコでやってるヒップホップのパーティーにも持っていけるように可動式のサウンドシステムを作ったんだ。僕らがやっているような音楽はマニラではまだまだアンダーグラウンドだから、その魅力をいい音で伝えたくてね。若者たちのためにプレイしているようなところがあるんだ」

T-CA$H「DON-PはB-SIDEのマネージメントもやってるんです」

──B-SIDEがオープンしたのはいつなんですか。

RED-I「3年前。DON-Pはそれ以前からバーをやっていて、2008年に一端クローズすることになるんだけど、<彼にもしもう一度店を開くことがあったら教えてくれよ>と伝えてあったんだ。僕のなかにはB-SIDEの構想がすでにあったからね。2009年ごろ、DON-Pが場所を見つけてきてね。サウンドシステムも持ち込めるし、新しいアンダーグラウンド・シーンを始めるにはパーフェクトな場所だった。それで、B-SIDEを始めることにしたんだ」

SOUL FLOWER「場所を見つけてから3か月後にはもうオープンしていたわ(笑)」

RED-I「そうだった(笑)。それぐらいエキサイトしていたんだ」

──B-SIDEのコンセプトは?

SOUL FLOWER「マニラのローカル・アクトやアンダーグラウンドのミュージシャンのプラットフォームを作りたかったの」

RED-I「他の場所でかかっているようなメインストリームのものではなく、本当のアンダーグラウンド・シーンの拠点にしたかったんだ。パンクやスカ、ソウル、ヒップホップ、そしてエレクトロニック・ミュージックを僕らはサポートしていきたいと思っている」

SOUL FLOWER「B-SIDEではいろんなパーティーをやってるんだけど、レゲエはやっぱり支持されているわ。<IRIE SUNDAY>や<BOOM BAP FRIDAY>みたいなパーティーはすごく盛り上がっているし」

RED-I「ソウルのバンドナイトもやってるし、さまざまなジャンルのローカル・アクトをサポートしていければと思ってる」

T-CA$H「B-SIDEってすごく分かりにくい場所にあるんですよ。メインのストリートから離れていて、外からは倉庫にしか見えないんですけど、中にはお 洒落なセレクトショップも入ってて。そういう場所はマニラにそこしかないと思います。日本は昔からコアな音楽が大切にされてきましたけど、海外ではとにかく集客できる音楽ばかりがプッシュされてて、そのためどこのハコでもトップ40ものばかりがかかってる。でも、アンダーグラウンドで頑張ってる人は90年代からいて、彼らはそういう人たちもサポートしてるんです」

──B-SIDEのオープン以降、ダブステップのようなベースミュージックは増えてる?

RED-I「確実に増えてるね。Bサイドをオープンさせる前から<Dubplate>というイベントを日曜の夜8時にやっていたんだけど、その頃はお客さんも少ししかいなかったよ」

SOUL FLOWER「あと、トラックを手に入れてから状況が変わったの」

RED-I「そうだね。DJブースを積んだトラックを手に入れたことで、ダウンタウンのほうでもプレイできるようになったからね。マリキーナにある<Cubao X>というヴェニューで定期的にプレイするようになったのもトラックを手に入れて以降のことだから」

SOUL FLOWER「私たちがマニラで初めてベースミュージックのパーティーを始めたと思う。それまでマニラの人たちはベースミュージックを聴いたことがなかったと思うし、みんな気に入ってくれてるんじゃないかしら」

RED-I「続けていかないといけないだろうしね。次のパーティーではガスランプ・キラーを呼ぶんだけど、そのことによってまた状況が変わるかもしれない」

──B-SIDEの客層はどんな感じなんですか。

T-CA$H「イヴェントによって違うんですが、7割ぐらいがフィリピン人、2割が欧米人、残りの1割がアフリカンとフィリピン人以外のアジア人ですね。マニラってハブ空港なので、いろんな人がやってくるんですよ」

──他のアジアのシーンとの交流についてはどう考えています?

SOUL FLOWER「東南アジアの他の国々のシーンともいい関係を作れてると思う。<BEATS SAIGON>を主宰しているホーチミンのDJジェイス(注4)や、マレーシアやタイのDJたち……。インターナショナルなアーティストを招聘するとき、アジアのなかでツアーできればひとりひとりのオーガナイザーの負担は減るから、アジアの関係者との繋がりはもっと深めたいと思っているの」

注4:DJジェイス/ホーチミン在住のDJ、プロデューサー。アジア・ベースミュージック・シーンのキーパーソンのひとり。欧米の関係者とのパイプも太い。

RED-I「そうすればもっと気軽に他国のアーティストを呼べるようになるからね」

SOUL FLOWER「同じベースミュージックを聴いているんだから、政治的問題を越えて繋がっていくべきだと私は思うわ」

──今後の活動についてはどんなイメージを持っていますか。

RED-I「来年は僕のセカンド・アルバムを出したいと思っているし、ベースミュージックやレゲエのパーティーをもっとやっていきたいとも思ってる。今やっていることは僕らがやりたいことの<始まり>に過ぎないからね」

サウンドシステムを搭載したトラックでアップタウンとダウンタウンを行き来するRED-IとSOUL FLOWER。アジア各国のシーンと連携しながら、マニラの夜をさらに盛り上げようとしている彼らにはもっと聞きたいこともあったのだが、続きは夜のマニラで話すことにしよう。
 AIR ASIA、ジェットスターなどのLCCを使えばマニラまで大してお金もかからないし、軽い気持ちでB-SIDEまで遊びにいくのもアリかもしれない。貧困と民族紛争のイメージばかりに囚われていると、東南アジアで生まれつつある新しい動きを見逃しちゃうかもよ。

B-SIDE:http://www.bsidemanila.com/

INTERVIEW 

秋田の過疎地に鳴り響く、祈りにも似たルーツ・ロック・レゲエ――英心&The Meditationalies

取材・文/大石始
写真/ケイコ・K・オオイシ

 2017年1月、僕らは秋田県山本郡三種町鹿渡にいた。JR秋田駅から奥羽本線に乗り換えて40分ほど。海まではさほど離れていないため、他の豪雪地帯に比べれば降雪量自体はそれほど多くないものの、曇り空の下を吹き抜ける北風は震えるほど冷たい。駅を降りて周囲を見回すと、歩いている人はおろか、一台の車すら走っていない。
 この鹿渡に、松庵寺という古刹が建っている。創建は天文年間(1532~54年)。かの紀行作家・菅江真澄も訪れたという由緒正しい寺だ。
 英心くんは、ここで副住職を務めながら、マイペースな音楽活動を続けている。僕が彼と知り合ったのはコロリダスという陽気な南国音楽楽団の打楽器奏者としてだったが、のちに地元の仲間たちと英心 & The Meditationaliesというレゲエ・バンドを結成。みずからフロントに立ち、2015年にはファースト・アルバム『からっぽ 』を、2018年晩夏にはセカンド・アルバムとなる『過疎地の出来事』をリリースした。
『からっぽ 』を初めて聴いたとき、僕はとても驚いた。地元秋田の美しさを語りながらも、過疎地の厳しい現実を織り込んだ英心くんの歌には、気休めでも現実逃避的でもない「希望」が綴られていた。その一方で、歌の背景には光さえ差し込まぬ曇天の気配があった。酒場で泥酔して大騒ぎしたり、コロリダスのライヴでみんなを陽気に盛り上げている彼の姿しか知らなかった僕は、英心くんのなかにそんな「影」の部分が潜んでいることなど、まったく気が付きもしなかったのだ。
 英心くんはいったいどんな場所に住んでいるんだろう?――そんな思いを膨らませた僕らは、彼の住む町を訪ねることになったのだった。(なお、本稿は2017年の年明けに某媒体用に取材したものの、諸事情あってお蔵入りとなっていたインタヴューを再構成したものである)

 英心くんの1日は、毎朝6時半にお経を唱えることから始まる。前日深い時間まで一緒に酒を酌み交わしたというのに、彼はその朝も何事もなかったようにお経を唱え、松庵寺のなかを案内してくれた(僕はというと、案の定しっかり二日酔いになり、布団から這いつくばるように抜け出す始末だった)。
 先述したように松庵寺は天文年間に創建されたが、当時は別の場所にあり、300年ほど前に現在の場所へと移転した。英心くんは「うちは幸いにも火事にあってないので、本堂の基礎もそのときのままですし、過去帳も400年前のものがまだ残ってるんです」と話す。
 ふと一枚の写真に目が止まった。英心くんのひいお爺さまの写真だそうで、「よく似てるって言われるんですよ」と英心くんは笑う。僕は曽祖父の顔も知らなければ、名前すら知らないけれど、英心くんは日常的にご先祖さまの存在に触れ、数百年もの時間軸のなかに自分が存在していることを実感しながら日々を暮らしている。
 また、彼から話を聞くまでまったく知らなかったのだが、冬場になるとお墓参りのできなくなる雪国には、寺内に設置された位牌所にお参りをする習慣があるという。松庵寺の本堂のなかにも数多くの位牌が並んでおり、その横には太平洋戦争の戦没者たちの名前が列挙されている。ここにはかつてこの町に住んだ人々の記憶も積み重なっているわけだ。

 インタヴューは英心くんの音楽部屋で行われることになった。歌やパーカッションであればレコーディングすることもできる、彼のホーム・スタジオである。本堂からその音楽部屋に向かう道すがら、今にも雪が降り始めそうな曇天を見つめながら、彼はポツリと呟いた――「秋田は日照時間が短いんです。それが自殺率の高さに繋がってるんじゃないかな」

――子供のころから僧侶になるものだと思っていた?

英心「そうですね。長男として生まれましたし、祖父や檀家さんも僕のことを跡取りだと思ってましたから」

――そのことについてはどう思ってたんですか。

英心「うーん……物心ついたころからお経を読んでたんですけど、中学生のころはやっぱりイヤでしたね。最初から自分の人生を決められていて、なおかつ周囲とは違う坊さんという人間になることを決定づけられているわけで。当時は『自分はミュージシャンになる!』と言ってたけど、その一方では結局(寺を)継ぐことにはなるだろうなとも思ってました」

――反発があったけど、諦めみたいなものもあった。

英心「そうですね。その反発の部分と結びついたのがパンクだったんですよ。高校のときはメロコア全盛期だったんで、ハイスタやブラフマン、それと青春パンクが好きでした」

――それが音楽との最初の出会いだった?

英心「ピアノは幼稚園から習ってたんです。最初に衝撃を受けたのは、秋田市のアトリオンというホールで観たオーケストラ。そのとき音楽ってすごいなと初めて思いました。中2でアコギを買って山崎まさよしなどを弾き語りでやってたんですけど、その後ベースを弾くようになってからハイスタのことを知りました」

――大学進学で上京しますね。東京には出たかった?

英心「都会志向だったし、自分の生まれた場所へのコンプレックスがすごくあったんです。このあたりの子たちは能代市の高校に進学することが多いんですけど、少しでも都会のほうに行きたくて秋田市の高校に行ったぐらいで(笑)」

――大学に入ってから本格的に音楽活動も始めます。のちにコロリダスを結成することになる(しみず)けんたくんは同級生だったと。

英心「そうです。学部は違うんですけど、入学してすぐに仲良くなりました。『ラテンアメリカ研究会っていうサークルがあるから行ってみようよ』とけんたに誘われたんですけど、最初は抵抗感があったんです。メロコアとかを聴いてたんで、ラテンなんて格好悪いと。でも、バトゥカーダを初めて聴いたとき、すごく感動したんです。太鼓だけのアンサンブルなのにこんなにすごいんだ!って」

 そこから英心くんの音楽世界は一気に広がった。ペドロ・ルイスやマノ・ネグラにハマり、マノ・ネグラのヴォーカリストであるマヌ・チャオのコピー・バンドも始めた。また、ボサノヴァやサンバヘギを演奏する一方で、ジルベルト・ジルのボブ・マーリー・カヴァー集をきっかけにレゲエにものめり込んでいく。
 大学卒業後の英心くんは、曹洞宗の大本山である永平寺(福井県永平寺町)で1年間修行したあと、四谷の東長寺で2年、さらには2010年9月から2011年8月までの約1年間、ブラジルはサンパウロの佛心寺に勤めた。まさに憧れのブラジル。「憧れていた人たちのライヴもたくさん観れたし、日本と違ってすべてが開放的だし、最高でしたね」という充実した日々を経て、日本に帰国。ブラジル渡航前に結成していたコロリダスの活動のため、東京と秋田を行き来する日々を送るようになる。

――秋田に戻らないで東京で音楽活動をやりたいという気持ちはなかった?

英心「あまりなかったですね。東京のお寺に勤めていたときって時間が本当になくて、週末は絶対休めなかったんですよ。だから、音楽活動のことを考えたら実家にいたほうが動きやすいだろうと。あと、音楽活動に対して親父の理解があったことが大きいですね。『ライヴのときは寺を空けてもいいから(秋田へ)帰ってこい』と言われていたので。すごくありがたかったですね」

――秋田に戻ってもコロリダスは続けていこうという意識はあったわけですね。

英心「それはありました。バンドを始めてすぐにポンポンとライヴが決まっていったし、なによりも楽しかったんですよね」

――コロリダスはブラジル音楽やカリブ音楽に軸足を置いているけれど、向こうのスタイルをなぞるんじゃなくて、自分たちのスタイルを大切にしてますよね。

英心「いくらブラジルやキューバで太鼓を習っても、彼らとまったく同じようには演奏できないなと思っちゃったんですよね。日本人なりに解釈したラテン音楽しかできないだろうと。そこはけんたと一緒なんです。そのままやっても僕ら自身が物足りないし、自分たちなりの解釈を加えてアップデートしたポップスをやりたかったんです」

 コロリダスは2013年に『デパート』、2016年に『coloridas』という2枚のアルバムをリリース。順調な活動を続ける一方で、英心くんは自身のバンドである英心&The Meditationaliesを始動させる。
「秋田にいる時間がだんだん長くなってきたんですよ。前はライヴの前後に何日か東京に滞在して遊んでたんですけど、それも面倒になっちゃって。だからといって音楽をやらないのも寂しいので、正月の余った時間を使って“秋田濃厚民族”という曲を宅録で作ってみたんです。秋田には知り合いのミュージシャンがあまりいなかったので、全部ひとりで演奏しました」
 この“秋田濃厚民族”が決定的名曲だった。秋田のPRソングを装っていながらも、「寂しい時もあるさ/生きろあるがまま」という言葉が挟み込まれるこの曲には、英心くんが幼少時代から育んでいたであろう深い情感が刻み込まれていた。そして、この曲を原型として、英心くんは自身の歌世界を開花させていく。

英心「ブラジルから帰ってきたら意識が変わっちゃって、たとえ秋田だろうと東京だろうと、日本にいたらだったらどこでも一緒なんじゃないかと思うようになったんです。東京でガツガツやることに意味を感じなくなったというか。ただ、“秋田濃厚民族”の段階ではまだバンドを作るまでは考えてなかったんです。コロリダスでは曲も作ってなかったし、歌もそんなに歌ってなかったので」

――“秋田濃厚民族”にはThe Meditationaliesのメッセージの原型がありますよね。秋田という土地をどのように見つめ、どのように歌うか。そこには単に秋田の魅力を発信するんじゃなくて、寂しさや厳しさも刻み込まれていました。

英心「当時、秋田で国民文化祭が行われるということもあって、秋田の景観や文化をPRする歌が氾濫してたんですよ。でも、そんなにいいところじゃねえぞ?という違和感があった。でも、そのなかでもいいところだってあるし……という気持ちのなかで“秋田濃厚民族”の歌詞を書いたんです」

――曲調もマイナー調の、秋田の曇天みたいな感じだし。

英心「そうですね。毎日ずっと曇り空で、しかも自殺された方のお葬式もやったりしていると、とびきり明るい曲なんて書けないなと思ったんです」


 ジャマイカのルーツ・レゲエには、たとえ陽気な曲調であったとしても、その背景には日々の葛藤と苦しみが滲んでいる。強さと弱さ、幸福と苦悩、愛と憎しみ、生と死――そのように相反するものが渾然一体となっている。
 英心くんの歌に潜む「影」も、そうしたルーツ・レゲエの背後に広がっているものと同じ類のものと言える。それは確かに秋田の過疎地で育まれたものかもしれないけれど、キングストンやリオデジャネイロのゲットーに宿るものと決して別物ではない。そして、彼の歌には、ローカルを突き詰めていったときに突然世界のどこかの「ローカル」と繋がってしまうような不思議な感覚、たとえばマヌ・チャオの歌を聴いているときに感じるようなものが確かに広がっている。英心くんはこう話す。
「昔はとにかく自分にとっての『しがらみ』から離れたくて音楽をやってたんですよ。でも、こっちに戻ってくると、自分の持ってるものでしか何も生み出せないことに気づいたんです。音楽と宗教はもともと密接な関係にあるし、ご詠歌やお経だって音楽。ないものをひねり出すんじゃなくて、あるものから生み出していけばいいんじゃないかと思えるようになったんです」

――英心&The Meditationaliesの活動を始めたのは2014年。

英心「そうですね。メンバーみんなレゲエを演奏した経験がなかったので、ひとつひとつのフレーズを『こうやってください!』と教えながら始めたんです。それが結構大変でしたね」

――2015年のアルバム『からっぽ』には仏教的視点がはっきりと現れてましたよね。

英心「これしかできなかったということはありますね。それが自分の自然体なんだと思いますし。基本的には自分語りなんですよ。自分のこと、身の回りのことしか語れない。人の人生は歌えないんです。自分が輝けば世界は輝くという発想が仏教にもラスタにもあるんですけど、自己と他者は同じというか、I&Iみたいな感覚がある。歌詞を書くうえで、少なくとも自分を肯定しなきゃダメだなとは思ってますね」

――秋田に対しても、見方を変えることによって風景は変わっていった?

英心「まったくそのとおりです。こんな町だけど、自分が変われば何かが変わる。この曇り空だって、『昨日よりはいくらか明るいほうだ』と捉えることによってマインドが変わるんですよね。この雲を晴らそうと考えるんじゃなくて、まだ明るいほうだと捉える。それが世界の変え方のひとつなんじゃないかと思ったんです」

 もちろん、状況は決して楽観視できるものではない。英心くんは2013年から松庵寺を舞台に「松庵寺郷土祭り」という祭りをスタート。これまでにコロリダスや青谷明日香が出演したほか、最近では英心くんプロデュースによる婚活イヴェントなども開催している。

英心「過疎化は本当に深刻なんですよ。僕が子供のころはまだ団塊ジュニアの世代がいたんですけど、急激に子供が少なくなっている。何もないと本当に寂しい町ですね。檀家さんと話していても『寂しくなったな、この町も』と口々に嘆いてて……地方はどこでもそうなのかもしれないけど、ヤバい状況だと思います」

――「自分の世代でなんとかしないと」という使命感がある?

英心「『俺が変えるんだ!』という意識を持っても必ず壁にブツかってしまうし、そう簡単に変えれるわけでもないんですけどね。そう考えるのであれば、『ここで生きるのが楽しいんだぞ』という気持ちを持って、それを行動に移せばいいと思ってるんですよ。まずは自分が楽しむために音楽をやったり、祭りをやったりしてるんです」

――「松庵寺郷土祭り」の反響はどうですか?

英心「老若男女が寺に集まって楽しそうにしてるわけで、すごく嬉しかった。遠方からいろんな人も来てくれるようになりましたね。高齢者から子供たちまで楽しめる仕掛けを考え続けないといけないとは思ってます。最近は寺離れの傾向もあるし、寺をもう一度人が集まる場所にしたいんです」

――英心くんがさっき言ってた「見方を変えれば、世界は変わる」という話は、秋田以外でも通じるものですよね。その言葉に勇気付けられる人は多いと思う。

英心「そうだと嬉しいですね。僕も秋田に帰って坊さんになったら音楽活動は終わりだと思ってたんですよ。でも、秋田でも音楽はできるし、考え方を変えたら気が楽になりましたよね。すごく楽しくなりましたし」

 英心くんの歌には死者に対して手を合わせるような感覚があるが、その一方では、生者に対する賛美のエネルギーにも満ち溢れている。こうした歌が東京や大阪のような都市部ではなく、秋田の過疎地から届けられたことに意味があるんじゃないかと僕は思っている。ここには東京にいるだけでは決して見えてこない地方の現実が描き出されているが、ここから新たな「ニッポンの歌」が立ち上がるのだ、という静かな高揚感のようなものもある。
 なお、英心くん主催による「松庵寺郷土祭り」は毎年8月の第一土曜日開催。きっと初めて訪れた方も英心くんの人懐っこい笑顔に触れれば、自分の地元に帰ってきたような安堵感を覚えるはずだ。